思考の部屋

日々、思考の世界を追求して思うところを綴る小部屋

生きるとは、こころに一陣のすき間風が吹く程度の余裕を持つこと

2009年10月15日 | ことば

   障子のすき間にいる猫(ソラ)です。

「すきま風」という歌謡曲があります。昭和51年のいではく作詞 遠藤実作曲 の杉良太郎さんの歌です。

人を愛して人はこころひらき
傷ついてすきま風知るだろう
いいさそれでも生きてさえいれば
いつかやさしさにめぐりあえる
その朝おまえは小鳥のように
胸に抱かれて眠ればいい

夢を追いかけ夢にこころとられ
つまずいてすきま風見るだろう
いいさそれでも生きてさえいれば
いつかほほえみにめぐりあえる
その朝おまえは野菊のように
道のほとりに咲いたらいい

いいさそれでも生きてさえいれば
いつかしあわせにめぐりあえる
その朝おまえはすべてを忘れ
熱い涙を流せばいい

という歌詞内容で、作詞家の「いではく」さんは長野県佐久市の出身です。

 この1番と2番の歌詞の中に「すきま風」という言葉が出てきます。このすきま風は、通常の空気の流れの風ではありません。
 
 恋人同士であった仲という間柄に吹くすきま風、もの悲しく流れる心の中に吹く一陣の風のように私は思います。

 「すきま」と「風」が組み合わさったことば「すきま風」少し考えてみました。きっかけは昨日の出来事からです。

 昨日はワゴン車の後部座席に乗り遠出をしました。車外は秋の深まりとともに寒さもまし、車内のヒーターを入れました。しばらくすると秋の陽射しで車内温も上がり、ガラス窓を少し開け風を入れました。本来の「すきま風」を車内に入れたということです。

 高速道路の走行中のすきま風ですが、秋の風は車内を走ります。ガラス窓のすき間で人工的に作り出された風。高速で空気をガラス窓のすき間が切り風が作り出されます。

 このような風とは異なり、自然の風は、どこからとなく吹いてきます。

 いま「異なり」と書きましたが、考えてみると同じ空気の流れ、自然の風も人口の風も原理は一緒ではないかということです。
 
 ですから自然の風も、その元の空気は地球という器の中にあります。

 実につまらないことを考えているのですが、何かのすき間が空気を切って風は起っているのではないかと思ったのです。
 
 科学的に考えれば気圧の壁が該当しそうです。そして車の移動に該当するものは何か。それは刻々と変化する壁、その移動で時間が関係しているように思います。
 
 したがって時の流れが風を作るともいえるのではないでしょうか。

 「すきま風」、心の中に吹くすきま風を、なぜ日本人は本当に吹く風と同じ言葉を使っているのか、そこに不思議を感じます。

 「すきまかぜ」この言葉は「すき」「ま」「かぜ」に分解できます。「ま=間」「かぜ=風」で残るは「すき」の意味です。

 「すき」を古語辞典で調べてみます。「すき」という言葉と「すき」が頭につく言葉を抽出します。

すき【好き・数奇・数寄】1①好み。好きなこと②異性への関心が深いこと。2①風流の道。また、詩歌、音楽、俳諧、茶の湯などの芸道に熱中すること。

すきありーく【好歩く】①色好みをしてあちこち歩き回る。②風流を好んで歩き回る。

すきかげ【透き影】①物のすき間や薄い布などを通して見える光。②物のすき間や簾などを通して見える姿。

すきがまーし【好きがまし】浮気っぽい。

すきごこち【好き心地】恋の情趣を好む心。

すきや【数寄屋】茶の湯のための小さな建物。

他にもあるのですが、概ね「好き」という現代にも通じる言葉とその概念を拡張した事柄を含むものに分けられそうです。

 ところがこの中で異色な言葉がひとつあります。「透き影」という言葉です。物のすき間が関係する言葉で、「すきとおる」の「すき」ですが「すき間」とも関係するようです。

 ことばが古語で「やまと言葉」です。「すき」という音が全ての概念を含んで表現できるということです。表現できるということは感ずることができた、ということでもあります。

 ここからわかることは「すき」ということばの中には「間」「空間」があります。人と人との関係、物と物との隔たり、という概念を「すき」はもっているのです。

 次に考える仲で閃いたことばが「波風が立つ」ということばです。
 
 このことばは、どちらかというと人と人との間、相互の関係にしか使われないように思います。

 「人と人との間」この関係も「すき間」ではないかと思うのです。
 
 自己と他人、自分と森羅万象の間柄。すきま風や風はそこに起ります。

 風が起きない時もあります。感慨を共有し合っている間柄、情動を共有しあっている間柄である状態では、波風は立ちません。
 
 思想を共有するもの同士は、意見の相違が生じなければすき間は生ぜず、内紛粛正は起きません。

 そして共有から離れた他人とは、折り合いの心がない限り「すきま風」「波風」が立ちます。

 このように考えると、世間に生きるとは「すきま風」が起きる世界に住んでいるということのように思います。
 
 それが自然で、生きるということは、折り合いができる程度の心の余裕という「すき間」が必要なことかもしれません。

 今朝も朝から、つまらんことに思考を走らせてしまいました。

 生きるとは、こころに一陣のすき間風が吹く程度の余裕を持つこと。


最新の画像もっと見る

2 コメント

コメント日が  古い順  |   新しい順
Unknown (セピア)
2009-10-15 23:31:17
ソラちゃんは管理人さんの猫ですか? 
すきま風という言葉は、イメージが豊かですね。
今日も勉強です。
返信する
一陣の風 (管理人)
2009-10-16 06:22:56
コメントありがとうございます。
 一日一日を漠然と過ごせばただのそれだけ。折り合いの仲で、良くも悪くもときめいて熱く燃えなければいけないと思います。まあ「悪く」は問題がありますが、そこは自分を見つめる機会として生かすこともできます(倫理性の強化)。
 わたしは古代人は「もの的思考」という気配から物質的なものまでを瞬時に感覚において把握できたのではないか、現代人はそれとは異なり、視点がいつも「もの=物(固定的な意味)」的に思考する傾向にあると考えています。これが結局こだわりの世界に埋没することにもなると思います。
 「折り合い」とは「もの的思考」です。
 学者先生で「物的思考・事的思考」について言及する人がおられますが、私の「もの的思考」は、二言論で一元論でもありません。あるがままという仏教的な考えに基づいています。
 キリスト教学の場合でもこのように発想する人がいます。
返信する

コメントを投稿

ブログ作成者から承認されるまでコメントは反映されません。