今朝は、ETV特集「ハーバード白熱教室@東京大学 日本で正義の話をしよう」では放送されなかった部分として、昨日(10月3日)の「ハーバード白熱教室@東京大学」の番組から「最大幸福原理--功利主義」について、1884年の夏にイギリスで起こった、船が沈没し、4人が乗った救命ボートで繰り広げられた出来事事例を紹介したいと思います。
”正義 ”の講義の基本的な三つの考え方について再掲出しますが、次の三点です。
正義とは何か?3つの考え方(伝統的な思想)
1)最大多数の最大幸福~「功利主義」(ジェレミー・ベンサム・イギリス)
人間の幸福の最大化に価値をおく
2)人間の尊厳に価値をおくこと
人間の基本的絶対的な権利と義務を尊重する(イマヌエル・カント・ドイツ)
3)美徳と共通善をたたえ育むこと(アリストテレス・ギリシャ)
正義についての哲学的な議論によるもの
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<3人の命VS1人の命> 「ミニュネット号 沈没事件」
【サンデル教授】
4人の乗っていた船は沈没し救命ボートで脱出した。わずかな食料と飲み物しかなく数日のうちに飲み物も水も食べ物もなくなった。
乗組員は船長と2人の船員そして給仕の少年の4人だ。給仕の少年の名前はリチャードパーカー、彼は海水を飲みすっかり具合を悪くした。2週間以上が過ぎついに船長は、こう言った。
私たちが生きのびりには、給仕の少年を殺すしかない。所詮給仕の少年は孤児で家族がなく居なくなっても悲しむものがいない。我々は皆、家族持ちだ。祖国イギリスには養われなければならない家族がいるんだ。
船長は給仕の少年を殺し、数日の間、3人の船員は給仕の少年、パーカーの肉を食べて生き延びたのだ。
最終的に3人の船員は救出され、イギリスに戻ることができたが、殺人罪で裁判にかけられた。
彼らは必要に迫られての行為であったと主張した。君たちがこの訴訟の判事で道徳上の見地からこの事件を裁くとしよう。
給仕の少年を殺したことは道徳的に、許されるのだろうか。それとも間違っているのか、さあ、これが今日最初の投票だ。あの状態で給仕の少年を殺したことは、道徳的に許されると考える人は手を挙げて?
では彼らがしたことは、まったく間違っており彼らは罰せられるべきだと考える人は?
彼らを非難する人の方が、擁護する人の方が多いようだが、意見が分かれているね・・・。
まず彼らの意見を擁護する気との意見から聞こう。
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このように、アメリカのハーバード大学の「白熱教室」でもおなじみの対話・論議の題材事例が提起されました。
サンデル教授が「倫理上」と断っているようにこの問題は訴訟事件で民事的な不法行為、刑事事件の緊急避難の問題、また宗教的な慈愛の精神の問題をも含み哲学的な議論を越えて法律論争や宗教的な論争に発展する可能性があることから、事前の「断り」条件が示されています。
この事例に対し日本人はどのような考えを持つというよりも、人間としてどのような倫理的な思考が働くのかが非常に注目されるところです。共同体における「共通善」をどのように構築していくのか、どのような個人的な考えを、また倫理・道徳観念を相手に合わせることができるのかが、重要なポイントで、社会的な基本問題としてとらえることができると思います。
視点を変えると被害者、犠牲者の献身的行為とみるならば、自己身体の所有権との兼ね合いから、処分権の問題、自殺の問題にも発展します。
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<3人の船員の行為を擁護する意見>
【サンデル教授】
まず彼らを擁護する人の意見から聞こう。彼らを弁護する理由は何だろうか?
【アキラ】※イチローの剣でも登場する功利主義者のアキラ君からです。
全員が死ぬよりは、一人を殺すことで(3人が)生きのびる方が社会的にも有益だと考えますし、食べられた人間は誰も身内がいない人間であって悲しむ人間もいません。
しかし、食べなければならなかった人間には、支える家族が居り彼らが死ねば、悲しみも増大するのでこれはゆるされる(行為だ)と思います。
【サンデル教授】
いいだろう、アキラ。君は数が重要だと考えるのだね? 3人対1人鳥の命。そうして救出された3人には家族があり、彼らの幸せも考えなければならないという更なる事実がある。だから君は給仕の少年を殺害することは、社会の最大多数のための最大幸福を促進するという理由から彼らを擁護するのだね? それでいいかい。
【アキラ】
ハイ、その通りです。
【サンデル教授】
OK。ところでアキラ、君は自分を功利主義者だと思うかい。
※功利主義:社会における個々人の幸福の合計を最大にしようとする考え方
【アキラ】
ハイ、そうです。(会場笑い)
<3人の船員の行為を非難する意見>
【サンデル教授】
次に3人のしたことは道徳的に許されないと考える人からアキラの功利主義的な見方に反対する意見を聞きたい。どうして反対なのか説明できるかな。
【リョウタロウ】流暢な英語
道徳的には許されません。誰にも基本的権利があります。どんな状況でも侵害されてはなりません。さらに少年お同意を得ずに殺すやり方は間違っています。
【サンデル教授】
リョウタロウは道徳的に言って、数字は全く重要ではない。彼らのしたことは定言的、つまり無条件で間違っているという。アキラの言うそれで多くの命が助かったとしてもだ。その3人には家族があった。一方給仕の少年には、選択肢がなかったという事実も問題になる。彼には事前に相談がなかった。彼に殺してもいいか、と尋ねることもなかったし、彼はそれに同意もしていなかった。自律性、つまり人間には自分の命について選択する自律の基本的権利があると思うかい?
※自律:自分の意思によって決めた規範に従って行動すること
【リョウタロウ】
ハイ、そう思います。この社会では、誰もが自分の体をコントロールする権利を持っていて・・・侵害できません。
<この問題に対する議論>
【サンデル教授】
誰もが自分の体をコントロールするという権利、基本的な権利を持っているんだね。
この意見についてアキラどう思う。
【アキラ】
どの道その少年は、死ぬはずだったのだから、多分暗黙的な了承もあったのではないかなと考えています。それに3人の基本的人権を守るために(1人)の人権を害したのであれば、それは私は許されることだと思います。
【サンデル教授】
では二つの意見が出たが、他に彼らを非難する側に加わりたい人は? それは間違っているとい考える人は・・・。さあ君はアキラにどんなふうに答える?
【カオリ】
死んだ方には将来があり、将来家族ができたかもしれません。そのように成った場合、その家族に対してどのように考えるかということに関して、アキラさんの言っていることは全く間違っていると思います。
【サンデル教授】
数についてはどうかな、数は道徳的には重要ではないかね?
【カオリ】
数は問題ではないと思います。人の人生、命に数ということをたしたら、おかしな事が起きると思います。
【アキラ】
しかし、さっきの事例によりますとその少年は衰弱しきっていて、死ぬことが決まったかのような言い方だったのでそれだったらその人間は暗黙的に食べられることをおそらく許可したと思います。だからその人間を・・・犠牲にすることによって、3人の命やその家族を守ることは、これは国家的に観ても有意義な行為だと私は思います。
【カオリ】
全くもっておかしな話だと思います。であればこの中で体の弱っている人がいればその人を殺していいのかということになります。そういうことはまずないと思います。人の命というものの重さは等しいものであって、重さに軽い・重いを付けることはできないと思います。
【サンデル教授】
どう思うかね。
【A・女性】流暢な英語
そのままでは少年は死ぬことは確実です。救助が来れば事情が変わってきますが・・・。自己犠牲であるなら話は別で正当化されると思います。
【サンデル教授】
ではパーカーが「僕はどうも具合がよくない。どうぞ召し上がれ」と言っていたら問題はなかった、と言うことかい?
【A・女性】
思うに同意なしに殺すよりよかったと思います。
【サンデル教授】
許されるのだろうか?
【A・女性】
ハイ、少年の同意があれば許されると思います。
【サンデル教授】
そうすると前に出た意見、「人間は自分の体について決める権利を持つ」という意見に一致するということになる。自分が望むなら自殺する権利を持つということだと思う?
【A・女性】
ハイ、彼が言ったように、自分の体をコントロールする権利があるという意見です。
【サンデル教授】
君はそれに賛成する?
【A・女性】
そういう論理に従うのなら賛成です。
【サンデル教授】
パーカーが同意しても、なおそれは間違っていると思う人は?
【ヨウヘイ】
僕は間違っていると思います。というのは自分は自分一人で生きて来たんでなく、両親の支えや友人の支えで、やっぱり自分は助けられて生きてきたと思うので、その人たちの分も背負って生きていると思うので、自分で死んでいいと思った時に、そのまま命を絶つとか死んでいいよとか自分で許可を与えることは、間違っているのだはないかな、というふうに考えます。
【サンデル教授】
ヨウヘイは、人間には自分の命を捨てる権利さえない、と言っている。では・・・パーカーを殺すことはどう思う? 道徳的に許されるかそれとも間違っているか、ヨウヘイどう思う?
【ヨウヘイ】
僕は道徳的に認められないと思います。
【サンデル教授】
道徳的にそれは許容できない。功利主義的な考えに対して面白い二つの反論が出てきた。
その一つは、我々には基本的権利、自律権があるので自分自身の体も命もどうするか決める権利がある。だからパ-カー殺害する考えは間違っている、という意見だ。
そしてヨウヘイ、君が示しているような二つ目の考えがある。それは生命に関する権利は、とても根本的なものなので自分でも捨てることはできないとする考えで、哲学者はそれを「不可譲の権利」と呼んだ。
ある種の権利は非常に根源的で、自分の命をどうするか、個人が自由に選択することはできないという考えだ。
さて今まで議論してきたのは正義の最初の考え、「幸福の最大化」という考えの実例だ。
アキラの考えはこうだ。 一人の命よりも3人の命とその家族を加えた幸せの方が大きい。
そしてこの功利主義的な論法に対して自律的という基本的、絶対的権利に訴える反論があった。基本的権利や人間の尊厳を尊重することが何を意味するか、二つの異なる主張があった。
人間の尊厳を尊重する考えでは一人一人が自分の体と命をどうするか、選択することができる。基本的権利の別の考え方によれば、生命の権利はとても重要でとても根本的なものなので、不可譲であり自分でも放棄することはできない、と言う。
その二つ目の考えでは、私の命は私自身の所有物ではない。なぜなら他の人々が私を頼っているかもしれないからだ。そして人生を生きるとは、自分の命を絶って単に自由に放棄することはできないという他の人に対する責任を含むかもしれない。
ここまでの議論で
功利主義の道徳的推論
と
カントの権利あるいは義務に基づく道徳的推論
の典型的な対比を行ってきた。我々はその違いを明らかにしてきたが、同じ人間の尊厳に訴える”正義 ”の中にもとても興味深い意見の相違を見た。
さて海で遭難した人々、極端な状況のとても遠い話から「所得の分配・貧富の差」という」と言う現代の話に移ろう・・・・・・。
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以下からは、「ハーバード白熱教室@東京大学 日本で正義の話をしよう」のETV番組(1時間30分バージョン)の「Lecture1[イチローの年俸は高すぎないか?]の議論・講義になります。
参加された人のサイトでパーカーのこの事例がETV番組バージョンでは削除されているという話を聞いていましたが、冒頭で語ったように本場ハーバード白熱教室に近い論議が交わされており、またサンデル教授の素晴らしい教育者として教育の仕方、技術を勉強することができます。
今回の前編の最後にサンデル教授が白熱教室の講義における自分お役割を述べていました。
【サンデル教授】
講義が成功するかどうかは、そこにいる聴衆の参加の仕方で決まるのです。誰が何をいつ発言するかを予測するのは全く不可能です。正に私が狙っていた通りの道徳原理や哲学的考察につながる発言があるかも知れません。
私が考えている方向とは、見当違いの発言もあるでしょう。しかし、熱心に議論するうちに最後には良い方向に進むのです。
私の役割は、交された一つ一つの会話の意図を盛り上げ一緒に学んだことをまとめることです。
講義をすること、教えることの難しさと重要性がよく理解できまし。
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今朝は、哲学的には、また倫理的な話を離れて前提からは外されている法律的な問題特に刑法的な問題を見てみようと思います。
この事例の場合は、ユーゴの小説『レ・ミザラブル』飢えをしのぐためにショーウィンドウの中の一片のパンを盗んだばかりに一生犯罪人の烙印を押され、法の化身ジャヴェールにしつこく追いまわされる主人公やアンデス山脈の山奥で遭難した人たちが死人の肉を飢えをしのぐために食した話を想起します。
法律論の前提には、「緊急事態で自己を維持するためにやむを得ずとった行為は、たとえ第三者の法益を侵害するという事態が生じたとしても、処罰しないでおこうと考えるのが人間の自然的感情である、と考えます。「緊急は法を持たない(nescessitas non habet kegem)」と言う方格言があるほどで、日本の刑法典にもしっかりと規定され「処罰されない」旨が記載されています。
犯罪とは、刑法各条文の示す構成要件に該当する違法性・有責性のある行為ということになっています。緊急避難は、違法性の次の責任性の有無の段階で論じられるもので通説は責任阻却説という考え方が元になっています。
緊急避難の本質は、責任阻却に求める立場でドイツのM・E・マイヤーから始まった考え方です。
緊急避難の行為者は他人の法的に保護された権利を犠牲にして自己の利益を守るのであって、一つの方侵害を行うものである。したがって、その行為の違法性は明らかであり、緊急避難の不可罰性の根拠が責任阻却のあることは、もはや争われないところである。
言うもので、違法ではあるが「やむを得ない事情がある場合である」という理由が、責任性を阻却する、すなわち責任を問えないという論法で無罪となるわけです。
違法ではあるが責任はない。法律の世界は、哲学の世界と大きく違うところがあります。
倫理・道徳で押尾学被告を見るとき、保護者責任遺棄致死罪が成立せず、の根底には、緊急避難とは異なりますが、法律の世界には、一般人が自分で考える”正義 ”とはかけ離れたものがあるという感情を抱くに至るのは、そういう「違法ではあるが責任はない論法」風なところから生ずるように思います。
しかしそうでもしないと権利侵害が拡大される可能性もあり、被害者、被告人双方の人権保護・・・非常に法律的にも難しい問題です。
「命の尊厳」は、宗教的な課題でもあります。また同じような話になりますが、
愛に相対するものは無視! である。
無視するということは相手の尊厳を傷つけることです。積極的な行為はもとより、無視するという消極的な、不作為的な行為も非常に相手、仲間を傷つけることで、自殺にまで追い込んでしまう、現代社会において大きな問題でもあります。
命の尊厳を語るにはいろいろなアプローチがあります。自覚とともに、わが子の教育も含めしっかり身に付けたいものです。
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功利主義の話が出て居ましたが大多数の幸福が少数の纏まりから生まれる基礎が出来て居ない…
すなわち…社会学的にユニットを捉えれば…家族単位や恋人単位で成立する…
その多数組織を重ねたものが大多数なのであって…
大多数の幸福が個人に反映されないのは手段が目的化されているに過ぎない。
三人の命を救う為に1人身寄りの無い少年を殺す…
ここに正義は無い
1人1人が平等な命の重さならば…
船長も船員もそうでは無い者も同じ命でなければ成らない。孤児の青年は普通に往けば一番長く生きた。そして大富豪に成ったかも知れないし…学者に成ったかも知れない…
今ある状況だけで人の命の重さを人の判断で図り決めるのは間違っているのが1つと…
船長は一番責任が重いはず…災害にあったらまず船長が一番責任を負うべきだ(その為の代価及び保険等あるはず)予期できない災害であってもその責任の重要さから船長自らの命を持って償うべきだ…
しかも 子孫もいる…遺伝子的にみても…人類にとって複数遺伝子が残る方が良いのだから…少年を殺す事は正義ではない。
今年は、中二で弁論大会があるので、正義について書きたいですね。
いろいろと参考にさせて頂きます あは
>ははは様
コメントありがとうございます。
正義というものは考えれば考えるほど難しくなります。ハーバード大学白熱教室における”正義 ”は公共哲学という考え方に立って討議、議論されていきます。
学問にはいろいろなものがあります、いろいろな場において語られるということです。
世界においての、また日本においての公共哲学もし視野に入れなければなりません。
外国はわかりやすいのですが、いざ日本のことになると身近すぎて見えるものも見えてこなくなります。
日本は外来思想が、編集なり編成替えをしてあるように思います。「うしろめたし」という言葉について27日付けで書きましたが、この言葉日本的なアレンジそのままのように思います。
ハーバードでは絶対に論じられない言葉です。
本当に”正義 ”は深いです。
コメントありがとうございます。
か細い日本の…げんろんの自由…に歩を合わせ、原子力安全は、想定や定義に隠れ、日本カニバリズムを奔放、東電の社債を買う金利が跳ね上がって、東電の売りが自動停止。
目的や責任が消される…たわごとの自由…から、火事場・騒ぎを見た海外市場は、信頼が損ねられ、買う意欲が喪失させられました。売りを躊躇わせ買いを控えさせ、取引を中止させる、当事者が抱くうしろめたい思いは、正義の入口であって出口をも包みこむ、だいじな基本です。お寄りの折りは、お気に召すまま、コメントは、まったく自由です……丈司ユマ