Sightsong

自縄自縛日記

シンポジウム 普天間―いま日本の選択を考える(2)

2010-03-20 22:59:58 | 沖縄

(1)より続く

■ 桜井国俊 (沖縄大学長) 「辺野古移設問題―特に環境の視点から」

私としては、普天間や辺野古が大手メディアの大きな話題となって以来、ジュゴンを含め、環境影響に関する報道がぴたりと無くなってしまったことが不可解であり、この講演に期待した。桜井氏は、沖縄への「アメとムチ」政策が誤りで失敗に終わっていること、そして環境アセスの問題点を指摘した。

講演の要旨は以下の通り。

○今朝の沖縄2紙には、「普天間2案、最終調整」とある。キャンプ・シュワブ陸上案と、勝連半島沖合案(ホワイトビーチ)だ。両方とも過去に出たことのある案だ。3月29日のG8外相会議を控え、岡田外相はゲーツ国防長官・クリントン国務長官と調整に入るのだろう。
○2案はそれぞれ沖縄出身の代議士(下地議員)と沖縄の経済界から出された案であり、このことは鳩山政権にとって都合が良いはずだ。しかし、先が見えない泥沼であり、アセスにも時間がかかり迷走するだろう
○基地負担を負わせるために、沖縄にあらゆるアメが与えられてきた。95年の米兵少女暴行事件およびその後の米軍再編計画以降、15年間アメとして辺野古に600億円以上がつぎ込まれた。その結果、ハコ物はできたが維持のための借金がかさみ、雇用は低迷したままだ。われわれの未来はこのような形ではないし、沖縄に負担を押し付けるのはもはや不可能だ。
それでも安保が必要と判断されるなら、本土でやってくれ、というのが沖縄のメッセージだろう。
○施政権返還後、表面化しただけでも5,500件の米兵による事件が起きている。そのうち550件は凶悪犯罪だ。
○先日のひき逃げ事件も、女性兵士が吐くほど泥酔し、軍の車を勝手に持ち出したものだとされた。私服ゆえ、警察は軍だと気が付かなかった。
本土の平和は、憲法9条、安保、沖縄の3つの条件により成り立っている。そして、沖縄は米軍の侵略戦争に加担させられてきた。
海兵隊の抑止力とは神話にすぎない。有事の際に海兵隊を運ぶとしても、佐世保から揚陸艦が来ないと意味がない。すなわち、沖縄に駐留することの意味はない
キャンプ・シュワブ陸上案の場合、人々の真上を危険なオスプレイが飛ぶことになるだろう(2000年時点で、15機のうち4機が墜落した)。辺野古V字案より生活と生命を侵害するものだ。また、赤土が流出し、大浦湾の生態系に大きな影響を与えるだろう
○大浦湾は、ラッパ状に切れ込んでおり、サンゴ礁、海草、マングローブなど多様な生態系が存在する。それぞれの場所に、それぞれの生き物が自らの場所を見つけている。アオサンゴは石垣島・白保のそれに匹敵する。
○辺野古沖の海草は多く、ジュゴンの目撃も多い。しかし、防衛省の調査では、嘉陽では観察されても、辺野古沖では観察されていない。これは、キャンプ・シュワブの米軍の上陸演習による撹乱、そして調査自体による撹乱が考えられる。
○辺野古のアセスの間、オスプレイ配備のことが隠され続けていた。「方法書」、「準備書」を経て、ようやく2009年8月に明らかになった。
○これが日本のアセス法の大きな欠陥であり、日本政府が基地をつくることの調査は行ったとしても、米軍が基地をつかうことに関しては対象外となってしまう。そのために、情報開示を要求しても、「米軍から聞いていない」という回答がまかり通ってしまう。昨日(3/19)、アセス法の改定案が閣議決定されたが、その欠陥には触れられていない
○世界遺産の候補ともなりうるやんばるの森でも、東村高江にヘリパッドが増設されそうになっており、やはりオスプレイが想定されている。住民の水瓶となるダムがある場所でもあり、極めて異常なことだ。また、国は、反対する住民を司法という手段で排除する前代未聞の行動に出ている。
○辺野古のアセスはアセスではない。オスプレイ想定の飛行機について、「方法書」ではたった1行しか書かれていなかった。このような「後だしジャンケン」があってはアセス法が成り立たない。実際に28条で「後だし」を禁止しているが、それが問われることはなかった。閣議決定された改定案でも、28条問題は放置されている
○このままアセスの問題を放置することは、やがて日本国民全体の問題となることだろう。

(つづく)
※各氏の発言については、当方の解釈に基づき記載しております。


シンポジウム 普天間―いま日本の選択を考える(1)

2010-03-20 22:02:26 | 沖縄

法政大学沖縄文化研究所・普天間緊急声明呼びかけ人の主催により、シンポジウム「普天間―いま日本の選択を考える 日米安保と環境の視点から」(2010/3/20@法政大学)が開催された。司会は岩波書店『世界』編集長の岡本厚氏。

■ 加賀乙彦 (作家)

以下の発言。

○二・二六事件から憲法施行までを描く小説(『永遠の都』)を書き終えて疲れてしまったが、70歳になり、さらに戦後を書いてほしいとの要請があり(『雲の都』)、戦後史を勉強した。
○1952年の主権回復、その直後の「血のメーデー」から書き始めた。当時学生だった自分が感じたのは、米軍基地が「安全に日本を護ってやるため」が存在するという見方が間違いであることだった。1972年に「血のメーデー」被告に、全員無罪の判決が出された。沖縄の施政権返還はその後だ。
戦後のもっとも重苦しく、暗く、不自由なことは、外国の軍隊が入ってきていることだ。密約も含め、安保、一方的な平和条約が日本を苦しめている。
○最近、『不幸な国の幸福論』を書いた。日本の公共投資は、米欧を合算するより多く、そのほとんどを借金で賄っている。
○戦後、多くの人は全面講和を主張していたが、結局は片側講和になった。しかしもし実現したなら、北方四島はソ連領になっていただろう。サンフランシスコ平和条約は必ずしも悪いことばかりではなかった。
日本から米軍基地をすべて撤退してほしい。沖縄だけのことではない。いまは新しい時代を迎えつつある。

■ 宇沢弘文 (東京大学名誉教授)

御大、以下の発言。

○ティム・ワイナー(NYタイムス記者)が書いた『CIA秘録』(2007年)には、以下の報告がある。
― マーシャル・プランは戦後最大の対外援助であり、300億ドルに達した。受け取った国は、それを自国の通貨で積み立て、米国政府の指示で使うことになっていた。つまり対外援助などではなく、米国の産業や経済の利益を専ら目的としたものだった。
― 総額の5%(8億ドル)は、CIAに入るようになっていた。その大部分は各国の指導者に配り、その指導者たちが米国の言うなりに働いた。最終的には主な国で失敗し、日本だけで成功した
― 参謀本部第二部長・有末精三(諜報担当)は、日本の敗戦後すぐに、極秘資料をマッカーサーの諜報担当に渡し、スパイになると申し出た。児玉誉士夫は戦略物資をだまし取り、個人資産としていた。
― 1948年、A級戦犯であった児玉や岸信介は釈放された。岸はその足で首相官邸を訪れ、弟の佐藤栄作官房長官(当時)から背広を受け取り、「これで我々は皆、民主主義者だ」と言った。CIAは、岸を首相にするよう金を使った。
○そして60年安保。多くの若者が犠牲となった。その後、若者の社会正義や知的な志が失われた。現在は最低レベルにある。
○最大の被害を受けたのは沖縄だ。
日本の全土から米軍基地はすべて撤退すべきだ。そのための国民運動を提案したい。

■ 増田寿男 (法政大学総長)

以下の発言。「綺麗な海」との表現にはひっかかる(小沢一郎もそうだが)。汚い海なら良いのか、ということ。その意図はないにせよ。

○安保改定から50年、いまだそれは存在し、日本を縛っている。
○普天間の議論が喧しいが、「日本からの撤退」という声は聞こえてこない
○今こそ日本人としての見解を出すべく議論すべきだ。
○辺野古を見てきたが、ジュゴンが流れ着くような綺麗な海だった。
○沖縄を見捨てたままでいいのか。

(つづく)
※各氏の発言については、当方の解釈に基づき記載しております。


銀座を代表しないカレーと仙台を代表しないカレー

2010-03-19 22:58:10 | 食べ物飲み物

ラーメンと同様、カレーも日本で独自進化を遂げた食べ物である。南アジアや東南アジアのカレーも旨いが日本のカレーも旨い、と一言で言えないほどの生物多様性がある。したがって、以下のカレーはどこを代表するわけでもない。

銀座の「ニューキャッスル」では、たぶん年に1回くらいの頻度でカレーならぬ辛来飯(カライライス)を食べる。気が付いたらご主人が2代目になっていた。ここのメニューは楽しくて、「大井」(多い)、その手前の「品川」、「大井」より多い「大森」(大盛り)、その先の「蒲田」と、量に応じて駅名が付けられている。とは言え、一番多い「蒲田」が普通盛りくらいだから、いつもこれを注文する。味はかなり濃厚で、目玉焼きを崩しながら食べると良い塩梅にマイルドになる。・・・と書いていたら、また食べたくなってきた。

ところで、仙台に足を運ぶたびに、古本屋「火星の庭」を覗くようにしている。

今日、ここで、はじめてカレーを食べてみた。「セイロンカリー」という名前だが、断言してもよい、スリランカにこのようなカレーはない。それとは関係なく、かなり旨かった。レンズ豆とひよこ豆が入っており、ココナッツミルクで味付けがしてある。ミルチャ・エリアーデや山上たつひこの掘り出し物を確保したこともあり良い気分だ。次はいつ食べられるだろうか。

ついでに行きの新幹線で食べた、崎陽軒の「シウマイ弁当」。コロコロとして固い崎陽軒の焼売は好物なのだ。


備忘録

2010-03-17 23:59:59 | もろもろ

3月なので基本的には忙しい。では応用は?

■ 水俣・明治大学展 プレ・スタディーズ 水俣病と私たち 映像・報道・表現を通して考える(4) 映画『水俣レポート 実録公調委』(土本典昭) @明治大学リバティタワー1012教室 2010/3/18

柳田邦男が話すようだ。ああ、明日じゃないか。無理かな。
http://minamataforum.blog69.fc2.com/blog-entry-13.html

■ シンポジウム「『普天間』――いま日本の選択を考える」 @法政大学市ヶ谷キャンパス外濠校舎6階・さったホール 2010/3/20

桜井国俊・沖縄大学長による講演で、なぜかメディアで取り上げられなくなった環境影響が再び注視されることを期待したい。他に、佐藤学、加賀乙彦、宇沢弘文らの講演・発言。

http://earthcooler.ti-da.net/e2697327.html#more

■ アピチャッポン・ウィーラセタクン『NATIVE LAND』 @SCAI THE BATHHOUSE -2010/4/17

http://www.scaithebathhouse.com/ja/exhibition/data/100312apichatpong_weerasethakul/

■ 沢渡朔 『Cigar - 三國連太郎』 @JCII PHOTO SALON 2010/3/30-4/25

PENTAX LXと67で撮られた作品群。増感したであろう粗粒子も良い。大好きな写真集、これをオリジナルプリントで観ることができる。
http://www.jcii-cameramuseum.jp/photosalon/photo-exhibition/2010/20100330.html

■ 太田昌国の世界 @琉球センター・どぅたっち 2010/3/26

死刑制度についての論考。
http://dotouch.cocolog-nifty.com/blog/2010/02/post-8280.html

■ 丸尾末広に聞くマゾヒズムの世界 @ヴィレッジヴァンガード下北沢店 2010/4/22

『劇画家畜人ヤプー【復刻版】』刊行記念だそうで、丸尾末広と吉田アミとの対談(怖い)。

http://www.pot.co.jp/news/20100316_175527493917132.html

■ ゴーゴーミッフィー展 @松屋銀座 2010/4/22-5/10

ミッフィーは子どもだけのものではない。ディック・ブルーナの描く線は絶品(本当)。
http://www.asahi.com/event/miffy/

■ ロトチェンコ+ステパーノワ ロシア構成主義のまなざし @東京都庭園美術館 2010/4/24-6/20

ロシア・アヴァンギャルド好きなのだ。
http://www.teien-art-museum.ne.jp/exhibition/rodchenko/index.html

■ ジョン・ルーリー ドローイング展 @ワタリウム美術館 -2010/5/16

もうジョン・ルーリーは楽器を吹いていない。しかし本能的にうきうきする絵を描いている。
http://www.watarium.co.jp/exhibition/1001john/index.html

■ マノエル・ド・オリヴェイラ『ノン、あるいは支配の空しい栄光』『コロンブス 永遠の海』 @岩波ホール 2010/4/17-30, 5/1-6/11

もう100歳を超えるオリヴェイラ。ルイス・ミゲル・シントラ、レオノール・シルヴェイラ・・・。
http://www.iwanami-hall.com/contents/next/next_discription.html


今田敬一の眼

2010-03-16 23:40:25 | 北海道

所用で北海道に足を運んだついでに、北海道立近代美術館の常設展「今田敬一の眼」を観てきた。

今田敬一を含め、すべて北海道の美術に貢献した画家たちである。しかし、三岸好太郎と珍しい有島武郎の絵以外は、名前を眼にするのもはじめてだ。また、帝銀事件で容疑者とされた平澤大�胎(平沢貞通)の作品も1点あった。帰宅してから、150人を紹介している『近代日本美術家列伝』(神奈川県立近代美術館編、美術出版社、1999年)をひもといてみたが、一人も見当たらなかった。

素晴らしいと感じる画家は何人もいた。パンフの表紙(「朝の祈り」、1906年)に採用されている林竹治郎は、エッジが丸く溶けるようだ。年長の子供が押さえている本は聖書だろうか。背後の鏡のフレームには十字架が見える。北大前身の札幌農学校には外国人教師を多く招き、クリスチャンとなった学生も多かったという。

能勢真美の作品は、鬱蒼とした沼を描いた「緑庭」と、ゴーギャン風に熱帯の裸の女性を描いた「青い鳥」。透明感というのか、抜ける感じが良い。

中村善策の「摩周湖」は、しばらく階段の踊り場から眺めるほど深い群青色に眼が惹きつけられるものだった。

札幌はまだ寒く、雪が降っていた。鳩のように歩き、旨いと教えてもらったラーメン屋「五丈原」まで辿り着いた。スープが旨かった。

●参照
北海道版画協会「版・継承と刷新」、杉山留美子


『セロニアス・モンク ストレート、ノー・チェイサー』

2010-03-16 00:41:52 | アヴァンギャルド・ジャズ

クリント・イーストウッドが監修したドキュメンタリー、『セロニアス・モンク ストレート、ノー・チェイサー』(シャーロット・ズウェリン、1988年)。これを観たのはもう15年前くらいではないだろうか。

演奏シーンはやはり奇妙だ。指を固い棒のように伸ばし、巨大な指輪は鍵盤に当たらんばかり。「'Round Midnight」では、汗を拭いた布を掴んだ手でそのまま弾き、合間に(ソロの合間ではなく、鍵盤を叩く合間に)吸った煙草を、そのまま左横の鍵盤の上に直接置いている(!)。『真夏の夜のジャズ』における「Blue Monk」もヒップだったが、これに収められたハンチング帽の「Blue Monk」もヒップだ。そして、ステージ上で巨体でグルグル回転する凄さ。

ホテルの部屋でのプライヴェート・フィルムだろうか、妻のネリーに心を許した笑顔の映像が素晴らしい。この依存の一方、狂気が彼をがんじがらめにしていた。スタジオ内や空港での奇矯な言動は、ユーモアだけではなかった。息子のT.S.モンクが、悲しそうに父親の思い出を語る。目の前の息子が誰なのかわからなかった。小さかった自分はそれを認めることができず、無視したのだ、と。

モンクは、ツアーに出てもメンバーに譜面を渡さず、妙な指示ばかり出していた。フィル・ウッズが生真面目に対応し、ジョニー・グリフィンが笑いながらそれに付き合っている。そんな共演者泣かせのモンクだったが、偉大な存在であったがゆえに、後の音楽家たちが取り組む曲にもなっているということを感じることができる。トミー・フラナガンとバリー・ハリスが向かい合った連弾で「Well, You Needn't」を弾きにやりと笑う。また、その2人がピアノの前であれこれモンクの曲について悩み、後ろでアート・ファーマーとミルト・ジャクソンが楽しそうに覗き込んでいる。印象に残る場面である。

プロデューサーのテオ・マセロが、モンクの丸い眼鏡を見てげらげら笑う場面がある。カメラは、その眼鏡をかけて内省的な表情を浮かべ、動きを止めるモンクをとらえている。良いフィルムだ。

●参照
ローラン・ド・ウィルド『セロニアス・モンク』
セロニアス・モンクの切手
ジョニー・グリフィンへのあこがれ
『失望』のモンク集


『ドラえもん のび太の人魚大海戦』

2010-03-15 00:07:33 | アート・映画

子ども2人を連れて、近くのシネコンで『ドラえもん のび太の人魚大海戦』を観る。と言うと大変なようだが、実は自分が楽しんでいる。

結局、数年前から毎年1回観に来ている。ちょうど、絵柄が変わった『のび太の恐竜2006』(2006年)以来だ。そのとき、均一な太さから、筆ペンで描いたような味の線になった。線が変わると動きの柔軟性も変わるようで、大画面で観るのはとても楽しい。それにしても、1年が経つのは早いな。

今回の作品は、古代から海底に棲んでいる人魚族との出会いと冒険と別れ。このパタンは見事に踏襲しており、ほとんど『男はつらいよ』である。彼らは、古代に他の星から漂流し、地球にやってきたのだった。なんだか、『ウルトラセブン』の「ノンマルトの使者」を思い出してしまった。しかし、そこまでの哀しさや罪深さはなかった(当たり前だが)。

ドラえもんはいつでもお薦めである。

●参照
『ドラえもん 新・のび太の宇宙開拓史』(2009年)
『ドラえもん のび太と緑の巨人伝』(2008年)


J・K・ユイスマンス『さかしま』

2010-03-14 23:20:29 | 思想・文学

J・K・ユイスマンスは19世紀の変態作家であり、オスカー・ワイルドなどに影響を与えたと言われている。『さかしま』(河出文庫、原著1884年)は初期の作品である。

主人公デ・ゼッサンは、神経質ながら放蕩の限りを尽くした揚句、郊外の一軒家に引き籠る。それは、知識も趣味も低俗なブルジョアたちの挙動を目にするのさえ嫌になったからであった。彼は家を改造し、ただひたすらに自分の精神に良い影響を与えるような世界を構築した。内壁と外壁との間を水で満たし、色で染めることにより、室内に射す光を調整する。オルガンの鍵盤と酒樽の蛇口とを連動させ、酒の雰囲気に合った音を出すと注がれるようにする。亀の甲羅を宝石で埋め尽くす。

それは自分にとって快適な空間に改造するというものではなかった。明らかに、外界の現実をも取り込んだヴァーチャルな宇宙だった。その中では、文学のこと、宗教のこと、快楽のことについて自らのためだけに批評する。そしてデ・ゼッサンは老いていき、病んでいき、外界と触れることなく外界との接触に絶望する。

デ・ゼッサンの思考過程の説明が延々と続き、文学作品としては著しくバランスを欠いている。しかもどうでもいい話である。はっきり言って私には関係がない。しかし、単独者の中だけの世界構築と、脆いその世界の崩壊の描写が異様な迫力を持っていて、うるさい、うるさいと思いつつ読んでしまった。高校生の頃にでも読んでいれば、多少の影響でも受けたかもね。

こういう人は、現代こそいくらでもいる。私もあなたも無縁ではない。もっとも、そんな読まれ方はユイスマンスの意図したところではないのだろうけど。


ワコウ・ワークス・オブ・アートのゲルハルト・リヒター

2010-03-13 22:48:27 | アート・映画

西新宿のワコウ・ワークス・オブ・アートで開催されているゲルハルト・リヒターの個展『New Overpainted Photographs』。忙しくてあやうく見逃すところだったが、期間を1週間延長してくれたので最終日に観ることができた。

命名されている通り、写真上にペイントが施されている。リヒターの代表的な手法のひとつ、マルチレイヤーのナイフでの交錯ではない。森林の写真の上には、針葉樹の葉を思わせるようなツンツンとした盛り上がり。海の写真の上には津波様。近しい人々を撮ったと思しき写真や家族のポートレートは著しいピンボケであり、その周囲には、意思を持つようなペイントが溶け出し浸食している。これは眼の愉悦である反面、暴力的でもある。リヒターは禁忌に踏み込んでいる。

そして驚かされたのが、寝そべる犬の上に注ぐエネルギーの奔流だ。犬の姿はほとんど見えなくなっている。リヒターに関する評論は、敢えてこれまで読まなかった(理由は、リヒターをブランド的に抱え込む俗物の姿を何度か見たためだ)。しかし、このエネルギーの奔流に関して、白髪一雄や今井俊満らの仕事をリヒターが意識していたのかどうか、気になるところだ。

もうひとつの部屋では、マルチレイヤーの作品が5点ほど展示されていた。どれを見ても説明しがたい厳粛さに囚われることも、どの作品も異なっていることも、まったくマーク・ロスコと似ている。帰宅して、手持ちのリヒターの画集『100 Bilder』をひもといてみると、展示されていた「Wand」(1994年)を見つけることができた。

●参照
テート・モダンとソフィアのゲルハルト・リヒター


関口正夫、今井照明、ツジヤスヲ、松倉ゆきえ、那須悠介

2010-03-13 08:43:41 | 写真

新宿に出たついでに、写真ギャラリーを歩いて回った。

関口正夫『光/影』(ギャラリー蒼穹舎)

桑沢デザイン研究所で牛腸茂雄と同期だった写真家であり、時代を切り拓いたコンポラ写真とはまったく異なる世界である。展示されたモノクロのスナップ写真を観ての印象は、気が弱くて踏み込んでいかなかったのだろうな、ということだ。一歩引いての後ろ姿が多く、前から迫る場合にも腰だめのノーファインダー撮影のようだ。ただ、それも個性である。静かに呟いて世界と接するような写真には、魅力的なものもある。

今井照明『entity and feeling』(Roonee 247 Photography)

築地仁ゼミで教わった人たちが連続個展を開いている。これはそのひとつだ。すべて、銀座あたりですれ違う人々をとらえている。築地仁だけあって、モノクロプリントはトーンが出ていてしっかりしている。しかし、背後に、言い難い思いや「何か」が感じられない。

ツジヤスヲ『ダンスする夜』(Place M)

禍々しく、吸い込まれそうな夜の街の断片とエロス。普段は観ても拒否反応しか示せないデジタルプリントだが、このような断片であるならば悪くないのか、とも思えてきた。

松倉ゆきえ『0.5坪 庭付き一戸建て』(シリウス)

ホームレスの人々が公園や空き地の一角に作っている「一戸建て」。炊き出しや立ち退き。「心が優しい人たちで云々」という無条件のメッセージ性は低く、その意味では好感を覚える。優しいまなざしは写真家のものだからだ。

那須悠介『清水病院』(サードディストリクトギャラリー)

新宿ピットインから靖国通りを挟んだ向かい側にある。今日までこのギャラリーの存在を知らなかった。

被写体は松山から離れた場所にある病院(廃業した病院かと思っていたら違った)。過去の診療や生活の痕跡が、高感度のモノクロフィルムに感光している。この病院を見つけて写真作品にすべく通ったとのキャプションがあるが、それは逆にいえば安易であり狭いのではないかと感じた。しかし写真家の言によれば、6年間公表を控えていた作品群だということで、安易との最初の印象は撤回したほうが良いだろう。

印画紙かフィルターは4号以上の硬調のものだろうと想像していたところ、3号から4号の多諧調だという。3号でもここまでの効果があるのか。焼きの印象は、病院の記憶をイコン化しているというところだ。かなり良い作品群で、3回ずつじろじろと観た。

※写真家の那須氏よりご連絡いただき、事実誤認を訂正しました


ローラン・ド・ウィルド『セロニアス・モンク』

2010-03-13 00:04:25 | アヴァンギャルド・ジャズ

ふと本棚で眠っているのを思い出して、ローラン・ド・ウィルド『セロニアス・モンク』(音楽之友社、原著1996年)を読む。

ウィルドはジャズ・ピアニストである。評伝というより、まるでモンクの隣で息遣いを感じ取って伝えるような筆致は、ひょっとしたらそのためかもしれない。それが後付けの理屈であったとしても、次のようなくだりは、間違いなくジャズを生きる音楽家のものだろう。思わずにやりとさせられてしまった。

「マッコイ・タイナーは時間の前に、ハンク・ジョーンズは上に、ハービー・ハンコックは中に、デクスター・ゴードンは背後に、というように、各々が自分のリズムを持ち、自分の声を持っている。しかし、モンクは同時にいたるところにいる。」

いささか大げさかもしれないモンクへの賛辞。だが、読んでいくと、後にも先にもモンクはひとりしかいなかったのだということが実感できる。そして、天才としての伝説にも、奇人としての伝説にも事欠かない。ジョニー・グリフィンは、モンクが、自身とはまったく対極に位置していそうな早弾き超絶技巧のアート・テイタムのフレーズをまるごと演奏するのを聴いたことがあるという。その後に、モンクはこう語っている。「・・・でも、こんな風に演奏するのはあまり面白くないね。あまり個性的じゃない。模倣だよ。」

勿論、テイタムが没個性的で模倣だということはあり得ないことで、このエピソードはモンクが完成されたモンク自身であったことを示すものだろう。

ぎこちない音。奇妙な和音とサックスの歪みの模倣。共演者を苦しめた個性的な曲。これらのすべてが、「熟し、考え尽くされ、完成したかたちで存在」していたことを、ウィルドは何度もしつこく説明し続ける。ウィルドがモンクの曲のいくつかについて、残された記録をメトロノームを手に研究したところ、いくつかの例外を除いて、テンポは「髪の毛一本ほどの変化もなかった」のだと打ち明けている。まったく、ウィルドが言うように、これはジャズにおいては稀なことだ。しかし、モンクはいつも同じ演奏をするつまらぬピアニストではなく、その正反対であった。何とも不思議で面白い。

「絶えず何かが起こっているが、テンポは一ミリも変化することはない。大規模な無秩序を聴いているような印象を受けるが、それは完璧に秩序づけられているのである。セロニアス、あるいは転落の芸術。彼は落下していくように見えるが、だがつねに元の場所へと立ち戻り、そのようにして定義不可能な幾何学的形態を持った行程を創り出すのである。彼に関しては何から何まで予見不可能である。」

本書には、エディ・ヘンダーソンが精神病院のインターンをしていた(!)とき、モンクの担当となったエピソードも紹介している。まさにそのヘンダーソンとウィルドが組んだアルバム、『Colors of Manhattan』(IDA、1990年)がある。この1曲目に聴くことができるコール・ポーターのスタンダード曲「Everytime We Say Goodbye」は、この曲の演奏として最上のものだ。そう信じて改めて聴いていると、ツマが「何だそのすかしっ屁のようなトランペットは」と毒づいた。すかしっ屁でも抒情的なのだ。

もっとも、ウィルドのピアノについていえば、やはり抒情的でオーソドックスだが、何が特徴なのかいまひとつわからない。1997年だったか、新宿DUGで演奏を聴いたが、実はその印象はまったく残っていない。最近ではファンキーな感じのキーボードも弾いているそうだが、聴きたいような、聴きたくないような・・・。

ともかく、改めてモンクの魅力を再認識させてくれた本だ。『Monk's Music』(Riverside、1957年)を聴いたら、やはり素晴らしかった。特に、先輩のコールマン・ホーキンスがソロの入りを間違えて、それを楽しげに誤魔化す「Epistrophy」なんて最高なのだ。

●参照
セロニアス・モンクの切手
ジョニー・グリフィンへのあこがれ
『失望』のモンク集


ハマん記憶を明日へ 浦安「黒い水事件」のオーラルヒストリー

2010-03-11 23:58:37 | 関東

3月7日(日)、研究者のTさんに声をかけていただき、浦安市郷土博物館で開かれたシンポジウム「ハマん記憶を明日へ」を聴きに出かけた。

「記憶」とは、「黒い水事件」の記憶のことだ。1958年、本州製紙(現・王子製紙)の江戸川工場から流された廃水により、浦安の漁場は大打撃を受けた。浦安漁民が工場に押しかけ、乱闘となった事件は有名である。しかし、「黒い水事件」はそのことではない。実はその後も黒い水が流され続け、今井橋~浦安橋あたりには死魚が浮いたという。私にとっても、知識としてあったのは乱闘事件までだった。この1月の企画展『海苔へのおもい』により、こんなことがあったのかと驚いたのだ。

Tさんが送ってくれた文献資料に、あらためて目を通した。

●寺尾忠能「1958年・本州製紙江戸川工場事件(浦安漁民事件)の政治経済的考察」 環境経済・政策学会2009年大会
●寺尾忠能「本州製紙江戸川事件(浦安漁民事件)後の排水処理とパルプ生産」 環境経済・政策学会2009年大会

これによると、

○不十分な排水処理のまま製紙を操業していたこと、
○工場側はそれを認識しており、江戸川の流量が少ない日には排水も少なくしていたこと、
○1958年制定の「水質二法」(現在の水濁法)の基準が甘く、逆に排水しても問題ないのだという正当化の根拠を工場側に与えることとなった(すなわち、公害規制法ではなく、実質的に公害追認法であった)

といったことがわかる。

この問題が現在まで大きくならなかった要因のひとつは、やがて埋め立てられてしまうという諦念にもあったようだ。なお、浦安の漁業権全面放棄は、1971年のことである。

■ 佐久間康富「浦安・まちづくりオーラルヒストリー」

郷土博物館では、この2年間、当時の記憶をオーラルヒストリーという形で記録し、集積しようとしている。その作業の、ひとつの拠り所となった考えについてのプレゼンである。

記憶を採集し、編集し、アーカイヴとして残す。そのプロセスにおいて、地域のアイデンティティが形作られ、共有されていくのだという趣旨。単にファクツを矛盾ないよう集積するのではなく、すべてのプロセス自体に重きを置いているということのようだ。記憶は過去の情報にとどまらず、想起しなおす行動によってまた形になっていくのだとする考えが印象的だった。

とは言え、「誰がプロセスを共有し、誰が目撃するのか」という点について、割り切れないのが正直なところだ。現代の都市にあって、住民全員が生活や文化と同じ距離にいるわけではない。過去との距離も人によりまったく異なる。このヴィジョンが暗に想定するのは地域社会であろうと思うが、現実のプロセスは極めて限られた仲間うちで閉じたものになってしまうのではないか。

終わったあとに直接考えを訊ねた。沖縄戦や慰安婦と同様、このオーラルヒストリーは負の歴史を対象にしているのではないか―――漁民にとっては、補償のオカネが手に入るまで戦争より辛かったという証言もあり、大げさではない―――。さまざまな感情が交錯する口承は、ファクツと矛盾することも含むのではないか、と。それに対して、確かに矛盾はしばしばある、だからと言って、それらが嘘ということにはならない、との応答をいただいた。

■ ディスカッション

集まった方々は司会者にはわかっているようで、やはり破綻ない文脈に沿っての進行だった。その意味で、フリーディスカッションではなく、意表を突くような問題意識が提示されるような場ではなかった。ただ、さまざまな立場の方が発言し、非常に興味深いものだった。

○本州製紙の紙を使っていた出版社の方は、間接的な責任について問い直されるべきだと発言した。
○本州製紙に当時おられた方(!)は、当時の技術指導に問題があり、限界があったのだと発言した。
○漁民の「亭主関白」は、命にかかわる仕事をしていたからでもあり、家庭を女性が辛い思いをして支えていたのだという証言があった。
○漁業権放棄までは戦中より苦しく、埋め立てが決まったときの喜びという気持ちは、環境保護のみの観点からは出てこないという指摘があった。
○このプロジェクトで、50年間家族にも言わなかったことを口にした例があったとの報告があった。
○当時のことをうまく話せない人が多いためもあり、記憶が風化する前に集積することを評価する声があった。

◎参照
浦安市郷土博物館『海苔へのおもい』


『情況』の、「中南米の現在」特集

2010-03-07 07:00:00 | 中南米

『情況』2010年3月号(情況出版)が、「中南米の現在」特集を組んでいる。また中南米の他にも、表紙にあるように、「沖縄と政局」に関して興味深い指摘がなされている。

由井晶子「今につながる沖縄民衆の歴史意識―名護市長選挙が示した沖縄の民意」において、琉球の支配に関する研究の経緯が少し紹介されている。かつての「日支両属」、「薩摩支配」、伊波普猷の「日琉同祖論」などを巡る研究や批判である。非常に興味がある。まずはここで触れられている高良倉吉、安良城盛昭、新川明、田名真之、豊見山和行の成果に当たってみたい。

佐藤優「青年将校化する特捜検察 「小沢・検察」戦争をどう見るか」は凄まじく面白い。勿論いつもの煽りの芸もあるのだろうが、それを差し引いても、この一論文を読むだけでも本誌を買う価値がある。

中南米特集は多士済々だ。冒頭の対談がなんと太田昌国+足立正生(凄いね)。そしてベネズエラ、ウルグアイ、キューバ、グアテマラ、メキシコ、コロンビア、ボリビア、ペルーの実態を伝えるルポ。このあたりは、日本のメディアでは「反米」の目立つ動きとしてのみ、わずかに報道される程度であり、情報としてとても貴重だ。

かつて米国流の新自由主義の実験台とされた中南米だが、「反米」という図式のいまでも、なお米国側の手足が激しく荒らしていることがわかる。なかでも、イスラエル、モサドによる動きが活発であることには注目すべきだ。

「太田 モサドが活発って、どういうことですか?
足立 (略)かつては、各国の軍・警察にセキュリティのノウハウを売り込んで訓練するレベルだったんです。それが今や、そこで手に入れた共同関係を基盤に、かつての米国CIAの代わりにイスラエルの各種の特殊部隊が実働している。米国とイスラエルは、軍事と保安部門は一体ですから、米国の代行をしているとも言える。
太田 いわゆる左派政権の国ともですか?
足立 そうです。そこに入り込み始めているから、これは危ないなと思ってる。」

(対談 太田昌国・足立正生「中南米の現在、先住民族の現在」)

「イスラエルでは、”ベネズエラ、ボリビアが、イランにウランを提供している”とする眉唾な「秘密報告書」が報じられている。「南米介入」への世論作りだ。
 ルーラ大統領は虎の尾を踏んでしまった。」

(高橋正則「米国の牙が戻ったラテンアメリカ」)

●『情況』
新自由主義特集(2008年1/2月号)
ハーヴェイ特集(2008年7月号)
沖縄5・18シンポジウム『来るべき<自己決定権>のために』特集( 〃 )
尹健次『思想体験の交錯』特集(2008年12月号)
「現代中国論」特集(2009年10月号)

●参照
G・G・マルケス『戒厳令下チリ潜入記』、ドキュメンタリー『将軍を追いつめた判事』
廣瀬純『闘争の最小回路』を読む
太田昌国『暴力批判論』を読む
中南米の地殻変動をまとめた『反米大陸』
モラレスによる『先住民たちの革命』
デヴィッド・ハーヴェイ『新自由主義』
チェ・ゲバラの命日
『インパクション』、『週刊金曜日』、チャベス
ウカマウ集団の映画(1) ホルヘ・サンヒネス『落盤』、『コンドルの血』
ウカマウ集団の映画(2) ホルヘ・サンヒネス『第一の敵』
ウカマウ集団の映画(3) ホルヘ・サンヒネス『地下の民』
松下俊文『パチャママの贈りもの』 貨幣経済とコミュニティ


岡本恵徳『「ヤポネシア論」の輪郭 島尾敏雄のまなざし』

2010-03-06 23:00:00 | 沖縄

岡本恵徳『「ヤポネシア論」の輪郭 島尾敏雄のまなざし』(沖縄タイムス社、1990年)は、『新沖縄文学』における連載をまとめたものである。タイトルに記されているように、「ヤポネシア」概念に向けられた島尾敏雄のまなざしが、どのように内なる変貌を続けたのかという面に、本書の大部分が割かれている。矛盾や限界を指摘しながらも、その島尾を見つめる岡本恵徳のまなざしはとても優しい。

島尾は、東北にルーツを持つことを忌避したいものとして抱えていた。そして奄美にあって、特攻隊という異常体験と南島ルーツのミホとの濃密な恋愛体験。そのような島尾が「あってほしい」姿として捉えた南島を包む仮説・ヤポネシアは、やがて、東北を捉えなおすものとして姿を変える。すなわち、中央=ヤマト=倭、琉球弧、東北を「等距離」に見る概念なのだという。

岡本恵徳は、この変貌に、島尾の幾度かのポーランド旅行が強く影響したとみている。沖縄とは異なれど、戦時の酷烈な体験を経た人々の姿から、国境や民族というマージナル性を意識するようになったのだ、というのである。言うまでもなく、支配する中央と、抑圧される東北(その向こうに島尾はアイヌを見ていた)と琉球弧という構造だ。

しかしそれは、同じ日本という国家をなすことを大前提としたうえでの目線であった。「ヤポネシア」論の変貌の時期は、沖縄の施政権返還の時期と重なっているが、島尾はそのことには敏感ではなかった。「ヤポネシア」が島尾の願望の投影に他ならないことと同様に、この現実からの乖離も、「ヤポネシア」の最大の限界であったと言うことができるのだろう。

変貌は、あくまで島尾の内部の動きを原因としていた。沖縄旅行では、ミホとの間に生まれた息子(写真家の島尾伸三)を同行することによって、自身の中にある<よそ者>性を消し去ってくれるものだと呟いている。ポーランド旅行では、自らを、かつてこの地を侵略した「タタール人」になぞらえた妄想にふけっている。それは、東北という<マージナル>な地をルーツに持ち、中央という支配者であることから逃れられない自身と重なっている。あまりにも屈折した、支配者と被支配者との間の往還

ポーランドからの帰国後、島尾は、被侵略側・東北の出自であることを確かめることによって、「どこかでバランスを回復することができるようになった」―――鋭くも、岡本はそのように想像している。 

島尾が中央=ヤマト=倭と言うとき、琉球弧と東北とを同時に対をなすものとして想定している。しかし一方、その中央=ヤマト=倭の内部について言及することが欠落していた。従って、「ヤポネシア」は、国家論であって国家論ではなかった。

本書の最終章では、「ヤポネシア」がどのように受容されたのかについて考察を進めている。これが非常に興味深い。ひとつの傾向として、「ヤポネシア」は島尾の意図した国家論としてではなく、視点を変えた「気付き」とための優れた文化論として受容され、また、沖縄の人間のアイデンティティと関連して受容されたのだという。また、施政権返還の前後、それを自らの問題として切実に捉えていた論客たち(仲里効、高良勉、比屋根薫)らにとっては、「ヤポネシア」は刺激的ではあっても、国家論が欠落した国家論に過ぎなかったのだという。

アイデンティティの拠り所、文化論、そして国家論のすれ違いは、おそらく「ヤポネシア」という魅力的な言葉に関してみても、極めて現代的な観点にちがいない。 

●参照
岡本恵徳批評集『「沖縄」に生きる思想』
島尾敏雄対談集『ヤポネシア考』 憧憬と妄想
島尾ミホ・石牟礼道子『ヤポネシアの海辺から』
島尾ミホさんの「アンマー」
村井紀『南島イデオロギーの発生』
与那原恵『まれびとたちの沖縄』
仲宗根政善『ひめゆりの塔をめぐる人々の手記』、川満信一『カオスの貌』
齋藤徹「オンバク・ヒタム」(黒潮)
伊波普猷の『琉球人種論』、イザイホー


ダッタン蕎麦、すぼ巻と天ぷら

2010-03-04 23:30:37 | 中国・台湾

昨年中国山西省で目に付いて買っておいた乾麺。何だかよくわからず、中国出身の同僚に訊くと「わかりません。健康食品みたいです」とのことだった。

中国食品だからということではないが、正体がわからないものを家族と一緒に食べるのは憚られて、まずは鰹出汁をとって独りで食べた。卵を鍋に落すのは昔からの悪い癖だ(治そうというつもりはさらさらない)。蕎麦のような味で、悪くない。翌朝になっても、身体に異変はない。

そんなわけで、日を改めて家族の食卓へ。やはり蕎麦だなこれは、ということで、ネットで調べてみた。何のことはない、蕎麦だった(笑)。しかもダッタン蕎麦。(>> メーカーのHP:重たい)

ダッタンは中国語の韃靼タタールの意味である。しかし、「Wikipedia」によると、中国では韃靼は差別表現であり、「苦蕎麦」と称するという。確かにパッケージにはそれらしい文字がある。

ところで今日、所用で福岡に足を運んだ。福岡アジア美術館もついでに覗こうかと考えていたのだが、菌でも入ったのか、昨夜からずっと腹を下していて、自宅を出てから帰るまでトイレに7回も駆け込んでいたりして、気力体力ともに萎えてしまった。気休めにスーパーに入った。

目についたのは、「天ぷら」と、沢山のストローで練り物を覆った「すぼ巻」。私の生家がある山口は中国文化圏というより九州文化圏にあり、「天ぷら」といえば練り物の丸天を意味する。「すぼ巻」と呼ぶことは今日はじめて認識した(「すぼ」で巻いていることを言っているだけで、一般的な名称でないかもしれない)。ストローをはがすとき、魚肉も同時に取れてしまったりして、なかなかに細心の技術を必要とするものなのだった。

あまりにも懐かしくて、つい買ってしまった。天ぷらは軽くあぶって生姜醤油で食べるか、うどんに乗っけるか・・・。