Sightsong

自縄自縛日記

岡本恵徳『「ヤポネシア論」の輪郭 島尾敏雄のまなざし』

2010-03-06 23:00:00 | 沖縄

岡本恵徳『「ヤポネシア論」の輪郭 島尾敏雄のまなざし』(沖縄タイムス社、1990年)は、『新沖縄文学』における連載をまとめたものである。タイトルに記されているように、「ヤポネシア」概念に向けられた島尾敏雄のまなざしが、どのように内なる変貌を続けたのかという面に、本書の大部分が割かれている。矛盾や限界を指摘しながらも、その島尾を見つめる岡本恵徳のまなざしはとても優しい。

島尾は、東北にルーツを持つことを忌避したいものとして抱えていた。そして奄美にあって、特攻隊という異常体験と南島ルーツのミホとの濃密な恋愛体験。そのような島尾が「あってほしい」姿として捉えた南島を包む仮説・ヤポネシアは、やがて、東北を捉えなおすものとして姿を変える。すなわち、中央=ヤマト=倭、琉球弧、東北を「等距離」に見る概念なのだという。

岡本恵徳は、この変貌に、島尾の幾度かのポーランド旅行が強く影響したとみている。沖縄とは異なれど、戦時の酷烈な体験を経た人々の姿から、国境や民族というマージナル性を意識するようになったのだ、というのである。言うまでもなく、支配する中央と、抑圧される東北(その向こうに島尾はアイヌを見ていた)と琉球弧という構造だ。

しかしそれは、同じ日本という国家をなすことを大前提としたうえでの目線であった。「ヤポネシア」論の変貌の時期は、沖縄の施政権返還の時期と重なっているが、島尾はそのことには敏感ではなかった。「ヤポネシア」が島尾の願望の投影に他ならないことと同様に、この現実からの乖離も、「ヤポネシア」の最大の限界であったと言うことができるのだろう。

変貌は、あくまで島尾の内部の動きを原因としていた。沖縄旅行では、ミホとの間に生まれた息子(写真家の島尾伸三)を同行することによって、自身の中にある<よそ者>性を消し去ってくれるものだと呟いている。ポーランド旅行では、自らを、かつてこの地を侵略した「タタール人」になぞらえた妄想にふけっている。それは、東北という<マージナル>な地をルーツに持ち、中央という支配者であることから逃れられない自身と重なっている。あまりにも屈折した、支配者と被支配者との間の往還

ポーランドからの帰国後、島尾は、被侵略側・東北の出自であることを確かめることによって、「どこかでバランスを回復することができるようになった」―――鋭くも、岡本はそのように想像している。 

島尾が中央=ヤマト=倭と言うとき、琉球弧と東北とを同時に対をなすものとして想定している。しかし一方、その中央=ヤマト=倭の内部について言及することが欠落していた。従って、「ヤポネシア」は、国家論であって国家論ではなかった。

本書の最終章では、「ヤポネシア」がどのように受容されたのかについて考察を進めている。これが非常に興味深い。ひとつの傾向として、「ヤポネシア」は島尾の意図した国家論としてではなく、視点を変えた「気付き」とための優れた文化論として受容され、また、沖縄の人間のアイデンティティと関連して受容されたのだという。また、施政権返還の前後、それを自らの問題として切実に捉えていた論客たち(仲里効、高良勉、比屋根薫)らにとっては、「ヤポネシア」は刺激的ではあっても、国家論が欠落した国家論に過ぎなかったのだという。

アイデンティティの拠り所、文化論、そして国家論のすれ違いは、おそらく「ヤポネシア」という魅力的な言葉に関してみても、極めて現代的な観点にちがいない。 

●参照
岡本恵徳批評集『「沖縄」に生きる思想』
島尾敏雄対談集『ヤポネシア考』 憧憬と妄想
島尾ミホ・石牟礼道子『ヤポネシアの海辺から』
島尾ミホさんの「アンマー」
村井紀『南島イデオロギーの発生』
与那原恵『まれびとたちの沖縄』
仲宗根政善『ひめゆりの塔をめぐる人々の手記』、川満信一『カオスの貌』
齋藤徹「オンバク・ヒタム」(黒潮)
伊波普猷の『琉球人種論』、イザイホー