Sightsong

自縄自縛日記

ワコウ・ワークス・オブ・アートのゲルハルト・リヒター

2010-03-13 22:48:27 | アート・映画

西新宿のワコウ・ワークス・オブ・アートで開催されているゲルハルト・リヒターの個展『New Overpainted Photographs』。忙しくてあやうく見逃すところだったが、期間を1週間延長してくれたので最終日に観ることができた。

命名されている通り、写真上にペイントが施されている。リヒターの代表的な手法のひとつ、マルチレイヤーのナイフでの交錯ではない。森林の写真の上には、針葉樹の葉を思わせるようなツンツンとした盛り上がり。海の写真の上には津波様。近しい人々を撮ったと思しき写真や家族のポートレートは著しいピンボケであり、その周囲には、意思を持つようなペイントが溶け出し浸食している。これは眼の愉悦である反面、暴力的でもある。リヒターは禁忌に踏み込んでいる。

そして驚かされたのが、寝そべる犬の上に注ぐエネルギーの奔流だ。犬の姿はほとんど見えなくなっている。リヒターに関する評論は、敢えてこれまで読まなかった(理由は、リヒターをブランド的に抱え込む俗物の姿を何度か見たためだ)。しかし、このエネルギーの奔流に関して、白髪一雄や今井俊満らの仕事をリヒターが意識していたのかどうか、気になるところだ。

もうひとつの部屋では、マルチレイヤーの作品が5点ほど展示されていた。どれを見ても説明しがたい厳粛さに囚われることも、どの作品も異なっていることも、まったくマーク・ロスコと似ている。帰宅して、手持ちのリヒターの画集『100 Bilder』をひもといてみると、展示されていた「Wand」(1994年)を見つけることができた。

●参照
テート・モダンとソフィアのゲルハルト・リヒター


関口正夫、今井照明、ツジヤスヲ、松倉ゆきえ、那須悠介

2010-03-13 08:43:41 | 写真

新宿に出たついでに、写真ギャラリーを歩いて回った。

関口正夫『光/影』(ギャラリー蒼穹舎)

桑沢デザイン研究所で牛腸茂雄と同期だった写真家であり、時代を切り拓いたコンポラ写真とはまったく異なる世界である。展示されたモノクロのスナップ写真を観ての印象は、気が弱くて踏み込んでいかなかったのだろうな、ということだ。一歩引いての後ろ姿が多く、前から迫る場合にも腰だめのノーファインダー撮影のようだ。ただ、それも個性である。静かに呟いて世界と接するような写真には、魅力的なものもある。

今井照明『entity and feeling』(Roonee 247 Photography)

築地仁ゼミで教わった人たちが連続個展を開いている。これはそのひとつだ。すべて、銀座あたりですれ違う人々をとらえている。築地仁だけあって、モノクロプリントはトーンが出ていてしっかりしている。しかし、背後に、言い難い思いや「何か」が感じられない。

ツジヤスヲ『ダンスする夜』(Place M)

禍々しく、吸い込まれそうな夜の街の断片とエロス。普段は観ても拒否反応しか示せないデジタルプリントだが、このような断片であるならば悪くないのか、とも思えてきた。

松倉ゆきえ『0.5坪 庭付き一戸建て』(シリウス)

ホームレスの人々が公園や空き地の一角に作っている「一戸建て」。炊き出しや立ち退き。「心が優しい人たちで云々」という無条件のメッセージ性は低く、その意味では好感を覚える。優しいまなざしは写真家のものだからだ。

那須悠介『清水病院』(サードディストリクトギャラリー)

新宿ピットインから靖国通りを挟んだ向かい側にある。今日までこのギャラリーの存在を知らなかった。

被写体は松山から離れた場所にある病院(廃業した病院かと思っていたら違った)。過去の診療や生活の痕跡が、高感度のモノクロフィルムに感光している。この病院を見つけて写真作品にすべく通ったとのキャプションがあるが、それは逆にいえば安易であり狭いのではないかと感じた。しかし写真家の言によれば、6年間公表を控えていた作品群だということで、安易との最初の印象は撤回したほうが良いだろう。

印画紙かフィルターは4号以上の硬調のものだろうと想像していたところ、3号から4号の多諧調だという。3号でもここまでの効果があるのか。焼きの印象は、病院の記憶をイコン化しているというところだ。かなり良い作品群で、3回ずつじろじろと観た。

※写真家の那須氏よりご連絡いただき、事実誤認を訂正しました


ローラン・ド・ウィルド『セロニアス・モンク』

2010-03-13 00:04:25 | アヴァンギャルド・ジャズ

ふと本棚で眠っているのを思い出して、ローラン・ド・ウィルド『セロニアス・モンク』(音楽之友社、原著1996年)を読む。

ウィルドはジャズ・ピアニストである。評伝というより、まるでモンクの隣で息遣いを感じ取って伝えるような筆致は、ひょっとしたらそのためかもしれない。それが後付けの理屈であったとしても、次のようなくだりは、間違いなくジャズを生きる音楽家のものだろう。思わずにやりとさせられてしまった。

「マッコイ・タイナーは時間の前に、ハンク・ジョーンズは上に、ハービー・ハンコックは中に、デクスター・ゴードンは背後に、というように、各々が自分のリズムを持ち、自分の声を持っている。しかし、モンクは同時にいたるところにいる。」

いささか大げさかもしれないモンクへの賛辞。だが、読んでいくと、後にも先にもモンクはひとりしかいなかったのだということが実感できる。そして、天才としての伝説にも、奇人としての伝説にも事欠かない。ジョニー・グリフィンは、モンクが、自身とはまったく対極に位置していそうな早弾き超絶技巧のアート・テイタムのフレーズをまるごと演奏するのを聴いたことがあるという。その後に、モンクはこう語っている。「・・・でも、こんな風に演奏するのはあまり面白くないね。あまり個性的じゃない。模倣だよ。」

勿論、テイタムが没個性的で模倣だということはあり得ないことで、このエピソードはモンクが完成されたモンク自身であったことを示すものだろう。

ぎこちない音。奇妙な和音とサックスの歪みの模倣。共演者を苦しめた個性的な曲。これらのすべてが、「熟し、考え尽くされ、完成したかたちで存在」していたことを、ウィルドは何度もしつこく説明し続ける。ウィルドがモンクの曲のいくつかについて、残された記録をメトロノームを手に研究したところ、いくつかの例外を除いて、テンポは「髪の毛一本ほどの変化もなかった」のだと打ち明けている。まったく、ウィルドが言うように、これはジャズにおいては稀なことだ。しかし、モンクはいつも同じ演奏をするつまらぬピアニストではなく、その正反対であった。何とも不思議で面白い。

「絶えず何かが起こっているが、テンポは一ミリも変化することはない。大規模な無秩序を聴いているような印象を受けるが、それは完璧に秩序づけられているのである。セロニアス、あるいは転落の芸術。彼は落下していくように見えるが、だがつねに元の場所へと立ち戻り、そのようにして定義不可能な幾何学的形態を持った行程を創り出すのである。彼に関しては何から何まで予見不可能である。」

本書には、エディ・ヘンダーソンが精神病院のインターンをしていた(!)とき、モンクの担当となったエピソードも紹介している。まさにそのヘンダーソンとウィルドが組んだアルバム、『Colors of Manhattan』(IDA、1990年)がある。この1曲目に聴くことができるコール・ポーターのスタンダード曲「Everytime We Say Goodbye」は、この曲の演奏として最上のものだ。そう信じて改めて聴いていると、ツマが「何だそのすかしっ屁のようなトランペットは」と毒づいた。すかしっ屁でも抒情的なのだ。

もっとも、ウィルドのピアノについていえば、やはり抒情的でオーソドックスだが、何が特徴なのかいまひとつわからない。1997年だったか、新宿DUGで演奏を聴いたが、実はその印象はまったく残っていない。最近ではファンキーな感じのキーボードも弾いているそうだが、聴きたいような、聴きたくないような・・・。

ともかく、改めてモンクの魅力を再認識させてくれた本だ。『Monk's Music』(Riverside、1957年)を聴いたら、やはり素晴らしかった。特に、先輩のコールマン・ホーキンスがソロの入りを間違えて、それを楽しげに誤魔化す「Epistrophy」なんて最高なのだ。

●参照
セロニアス・モンクの切手
ジョニー・グリフィンへのあこがれ
『失望』のモンク集