ふと本棚で眠っているのを思い出して、ローラン・ド・ウィルド『セロニアス・モンク』(音楽之友社、原著1996年)を読む。
ウィルドはジャズ・ピアニストである。評伝というより、まるでモンクの隣で息遣いを感じ取って伝えるような筆致は、ひょっとしたらそのためかもしれない。それが後付けの理屈であったとしても、次のようなくだりは、間違いなくジャズを生きる音楽家のものだろう。思わずにやりとさせられてしまった。
「マッコイ・タイナーは時間の前に、ハンク・ジョーンズは上に、ハービー・ハンコックは中に、デクスター・ゴードンは背後に、というように、各々が自分のリズムを持ち、自分の声を持っている。しかし、モンクは同時にいたるところにいる。」
いささか大げさかもしれないモンクへの賛辞。だが、読んでいくと、後にも先にもモンクはひとりしかいなかったのだということが実感できる。そして、天才としての伝説にも、奇人としての伝説にも事欠かない。ジョニー・グリフィンは、モンクが、自身とはまったく対極に位置していそうな早弾き超絶技巧のアート・テイタムのフレーズをまるごと演奏するのを聴いたことがあるという。その後に、モンクはこう語っている。「・・・でも、こんな風に演奏するのはあまり面白くないね。あまり個性的じゃない。模倣だよ。」
勿論、テイタムが没個性的で模倣だということはあり得ないことで、このエピソードはモンクが完成されたモンク自身であったことを示すものだろう。
ぎこちない音。奇妙な和音とサックスの歪みの模倣。共演者を苦しめた個性的な曲。これらのすべてが、「熟し、考え尽くされ、完成したかたちで存在」していたことを、ウィルドは何度もしつこく説明し続ける。ウィルドがモンクの曲のいくつかについて、残された記録をメトロノームを手に研究したところ、いくつかの例外を除いて、テンポは「髪の毛一本ほどの変化もなかった」のだと打ち明けている。まったく、ウィルドが言うように、これはジャズにおいては稀なことだ。しかし、モンクはいつも同じ演奏をするつまらぬピアニストではなく、その正反対であった。何とも不思議で面白い。
「絶えず何かが起こっているが、テンポは一ミリも変化することはない。大規模な無秩序を聴いているような印象を受けるが、それは完璧に秩序づけられているのである。セロニアス、あるいは転落の芸術。彼は落下していくように見えるが、だがつねに元の場所へと立ち戻り、そのようにして定義不可能な幾何学的形態を持った行程を創り出すのである。彼に関しては何から何まで予見不可能である。」
本書には、エディ・ヘンダーソンが精神病院のインターンをしていた(!)とき、モンクの担当となったエピソードも紹介している。まさにそのヘンダーソンとウィルドが組んだアルバム、『Colors of Manhattan』(IDA、1990年)がある。この1曲目に聴くことができるコール・ポーターのスタンダード曲「Everytime We Say Goodbye」は、この曲の演奏として最上のものだ。そう信じて改めて聴いていると、ツマが「何だそのすかしっ屁のようなトランペットは」と毒づいた。すかしっ屁でも抒情的なのだ。
もっとも、ウィルドのピアノについていえば、やはり抒情的でオーソドックスだが、何が特徴なのかいまひとつわからない。1997年だったか、新宿DUGで演奏を聴いたが、実はその印象はまったく残っていない。最近ではファンキーな感じのキーボードも弾いているそうだが、聴きたいような、聴きたくないような・・・。
ともかく、改めてモンクの魅力を再認識させてくれた本だ。『Monk's Music』(Riverside、1957年)を聴いたら、やはり素晴らしかった。特に、先輩のコールマン・ホーキンスがソロの入りを間違えて、それを楽しげに誤魔化す「Epistrophy」なんて最高なのだ。
●参照
○セロニアス・モンクの切手
○ジョニー・グリフィンへのあこがれ
○『失望』のモンク集