鮎川俊介の「幕末・明治の日本を歩く」

渡辺崋山や中江兆民を中心に、幕末・明治の日本を旅行記や古写真、研究書などをもとにして歩き、その取材旅行の報告を行います。

北前船を追う-三内丸山~弘前~鰺ヶ沢~深浦 その最終回

2015-11-19 05:18:50 | Weblog
『北前船 寄港地と交易の物語』の福井県関係の記事としては、若狭・越前敦賀・大野藩の大野丸・河野村の右近家・九頭竜川水系の水運・韃靼漂流記などが出て来ます。このうち大野藩や大野丸については、「2007年.夏の越前福井・取材旅行『大野城下 その1』」および「その2」で取り上げたことがあります。興味深く思ったのは、幕末期に藩政改革を行った家老内山七郎右衛門良休とその弟隆佐の二人。「旧内山家」には、隆佐の護身用であったらしいル・フォショウ式レボルバという六連発回転式弾倉を持つピストルが展示されていました。また洋式帆船「大野丸」の模型も展示されていました。この「大野丸」は、2本マストの西洋型帆船で、安政5年(1858年)の6月に竣工。長さは18間(約32m)、幅4間(約7.2m)、深さは3間(約5.4m)ありました。大野藩は、安政年間に蝦夷地経営にも乗り出し、また殖産興業のために藩直営の「大野屋」を全国的に展開するという事業にも乗り出しますが、この改革を推進したのが、家老の内山良休とその弟隆佐であったのです。時の藩主は土井利忠。この土井利忠が蘭学なり西洋学を学んだ人物として、杉田成郷や鷹見泉石などの人物が出て来ます。鷹見泉石は、利忠の成長に大きな影響を与えたという。福井滞在中の横井小楠も、この大野藩の藩政改革には大いに注目し、門弟の河瀬典次を大野に派遣しています。良休は小楠を訪問して、二人はその後懇意になったという。 . . . 本文を読む