津軽に生まれ、津軽に育ちながら、ほとんど津軽の土地を知らなかった太宰は、津軽の日本海に面する西海岸には、小学校二、三年生の頃に「高山」に行ったきり、一度も行ったことはありませんでした。「高山」というのは、金木からまっすぐ西に三里半ばかり行ったところにある車力(しゃりき)を過ぎて、すぐにある海浜(七里ヶ浜)の小山で、そこには高山稲荷神社があり、古くからの難所だった周辺の海路、陸路の守護神であったとのこと。太宰には、「この機会に、津軽の西海岸を廻つてみようといふ計画」が、以前からありました。金木を出発した太宰は、五所川原駅で五能線に乗り換え、木造(きづくり)に立ち寄った後、午後1時に木造駅から汽車に乗り、西海岸の深浦へと向かいました。汽車は鳴沢、鰺ヶ沢を過ぎ、そのあたりで日本海の海岸に沿って走り、「右に海を眺め左にすぐ出羽丘陵北端の余波の山々」や、「右の窓に大戸瀬の奇勝」などを眺めながら、やがて深浦駅に到着しました。深浦は、藩政時代、「津軽四浦」の一つとして町奉行所が置かれるほどの重要な港町であり、風待ちや嵐から避難する廻船などで賑わう「津軽第一の港」でした。 . . . 本文を読む