鮎川俊介の「幕末・明治の日本を歩く」

渡辺崋山や中江兆民を中心に、幕末・明治の日本を旅行記や古写真、研究書などをもとにして歩き、その取材旅行の報告を行います。

2013.12月取材旅行「前小屋~深谷~大麻生」 その最終回

2014-01-06 05:39:29 | Weblog
「書画会」の雰囲気はというと、崋山が前小屋天神書画会の貴重な記録を遺しています。利根川を前小屋の渡しで越えて、まず崋山と梧庵が至ったのは「会主」の青木長次郎の家。途中、田んぼの畦道のかたわらには「会所道」と記された紙が竹に挟んでありました。要するに案内標示。青木長次郎家の裏口から中へと入って行くと、土間では女たちが4、5人集まって、参集した人々をもてなすための夕食を用意しているところでした。すでに足利から岡田東塢(とうう)、江戸から漢詩人宮沢雲山が到着しており、座敷へ上がってみると膝を入れる隙間もないほど人々が参集しています。崋山はその人いきれの中で夕餉をしたためました。それから一同が向かったのが前小屋天神社の書画会会場。先導するのは羽織を着た男2人。東塢・雲山・崋山・梧庵の4人が武士姿であるために、村の子どもたちは物珍しそうに道端で一同を見送ります。書画会会場は神社と別当の住居が一つになったところであり(神仏分離令以前の神仏習合の姿か)、それほど大きくはないために、あふれた人々は境内にたたずんだり、階段の下にうずくまったりしているようなありさま。境内や参道には、集まってきた人々相手に、煮鳥や酒、柿やみかん、唐紙や扇などを商う露店が出ているほど。浅間山や妙義山から吹いてくる西風が強く、社殿や別当の住居の壁や柱に掛けてある書画は、空高く舞い上がるほどでした。会場には、参加する人々が紙に包んで差し出した銭の束が、雪をかぶった富士山のように白く積み上げられています。社殿に上がった崋山は、人々から求められるまま紙扇(絵を描いて扇に張り付ける紙)に絵を描いて行きました。その見事な手際を感嘆の声を上げて見守る人々は垣根のごとく、そして描くべき紙扇はまるで山をなしており、さすがにこれを全て描くのは大変だと思った崋山は、途中で座を外し、雲山・東塢らとともに夜食が用意されている青木長次郎家へと戻りました。崋山によると、書画会会場には「豊沢」という奥州南部生まれという画師や、「欣然」という書家もいたようであり、また崋山はここでは記していませんが、東塢の友人であり、そしてまた崋山の知人でもあった島村の金井烏洲(うじゅう)もいました。この前小屋天神社書画会の「会主」は前小屋村の青木長次郎。そして「看板」は江戸の宮沢雲山(漢詩人)と渡辺崋山(画家)、そして島村の金井烏洲ではなかったか。 . . . 本文を読む