鮎川俊介の「幕末・明治の日本を歩く」

渡辺崋山や中江兆民を中心に、幕末・明治の日本を旅行記や古写真、研究書などをもとにして歩き、その取材旅行の報告を行います。

定信と文晁、そして「真景図」について   その1

2014-01-26 07:18:16 | Weblog
崋山は文政8年(1825年)の6月(旧暦)、日本橋小網町三丁目行徳河岸で船に乗り、両総常武の旅に出発しました。その時に描いたのが「四州真景図」でした。崋山の風景画の中でも傑作とされているもので、それについては『渡辺崋山 優しい旅びと』芳賀徹(朝日新聞社)に詳しい。天保2年(1831年)の10月(旧暦)、崋山は武蔵国三ヶ尻村の調査を目的として上野国桐生への旅に出発します。この時の日記が『毛武游記』であり、この時描いた風景画をまとめたものが『毛武游記図巻』。そして三ヶ尻調査をまとめたのが『訪瓺録』であり、そこには多数の風景画がおさめられています。私の取材旅行は、その風景画が描かれた場所を探して、その場所に立ち、崋山の旅行を追体験していくことが目的でしたが、崋山が短い時間に、精緻で正確な、しかも伸びやかな清新さを感じさせる風景画を描いていく、その見事な手際に感動していくことになりました。利根川の河口から銚子の町を描いたもの、雷電山の上から桐生新町を描いたもの、十山亭の跡地から関東平野を眺めた風景を描いたもの、観音山の中腹から足利の町を描いたものなどに、特にそのことを感じました。その彼の「真景図」は誰の影響によって生まれたものであるかと言えば、師である谷文晁の「真景図」によるものであることはまず間違いありません。若き日の崋山は、下谷二丁町の画塾「写山楼」にせっせと通い、文晁の絵手本の模写に努めましたが、その絵手本の中には文晁の風景画(真景図)もあったはずです。同じく文晁門下の立原杏所もすぐれた風景画を残していますが(たとえば「佃島秋景図」)、この立原杏所の風景画も文晁の影響を強く受けています。では、文晁の「真景図」はどのようにして生まれたのか。それが私の関心事になりました。サントリー美術館で『谷文晁』展を観た時、文晁は松平定信のお抱え絵師として活躍し、定信と深い信頼関係で結ばれていたことを知った時、定信のことを知らなければ文晁の画業のことについても深く知ることはできないと思い至り、定信のことについて理解を深めるために奥州(福島県)白河まで足を運ぶことになりました。「真景図」をポイントにおいて、定信と文晁について考えることになったのですが、取材旅行の報告を終えたところで、以下、そのあたりのことについて何回かに分けてまとめてみたいと思います。 . . . 本文を読む