鮎川俊介の「幕末・明治の日本を歩く」

渡辺崋山や中江兆民を中心に、幕末・明治の日本を旅行記や古写真、研究書などをもとにして歩き、その取材旅行の報告を行います。

2013.冬の取材旅行「白河~南湖~須賀川」 その2

2014-01-13 08:35:55 | Weblog
今橋理子さんの『江戸絵画と文学』によれば、松平定信の造園への意欲は、定信が老中を辞める前年の寛政4年(1792年)にはすでに始まっているという。定信が、一橋家が所有していた築地の下屋敷の一部を、老中辞任後の生活を送る場所として手に入れたのは寛政4年2月のこと。その手に入れた築地の下屋敷に造園を始めたのが老中辞任後のことであり、その完成した庭園の名前が「浴恩園」(よくおんえん)でした。以後、定信は白河藩主であり続けながら、47歳頃までの10年間に、江戸と白河の双方に合わせて四つの庭園を整備・所有することになったという。「浴恩園」以外には、小峰城の「三郭四園」(さんかくしえん・三の丸内)、「南湖」(なんこ・白河城下南部)、「六園」(りくえん・大塚の抱屋敷)、「海荘」(はまやしき・深川入船町)の四つ。文化9年(1812年)、白河藩主の地位を嫡男に譲って隠居した定信は、「浴恩園」内の「千秋館」を住まいとし、花鳥風月を友として悠々自適の生活を送りますが、文政12年(1829年)3月に下町に発生した大火により、「下屋敷」(浴恩園)も全焼。芝愛宕山下の松山藩中屋敷に避難した定信は、その年の5月にそこで亡くなっています(享年71)。この「浴恩園」があったところは、現在の東京築地の中央卸売市場一帯。この定信最晩年に火事によって失われてしまった「浴恩園」がどういうものであったかは、谷文晁画模本「浴恩園図記」と、星野文良の「浴恩園真景図巻」によってうかがい知ることができ、特に星野文良の「浴恩園真景図巻」の一部はカラー写真で『江戸絵画と文学』に「口絵」として掲載されており(本のカバー絵も)、「文政六年」頃の最も「浴恩園」が庭園として豊かであった頃の姿を「真景図」として見ることができます。この絵の作者、星野文良(1781~1829)は、崋山(1793~1841)と同じく谷文晁(1763~1840)の弟子。星野文良は谷文晁らとともに『集古十種』(しゅうこじゅっしゅ)の編纂事業にも関わっており、文晁の高弟の一人であったものと思われますが、今までほとんどよく知られていない人物。同門の崋山と親交があったのかどうか、どういう影響関係があったのかなかったのか等、全く知られていませんが、「浴恩園内」の花を美しく描いた植物図譜も残されており、たいへん興味をひかれる人物です。 . . . 本文を読む