鮎川俊介の「幕末・明治の日本を歩く」

渡辺崋山や中江兆民を中心に、幕末・明治の日本を旅行記や古写真、研究書などをもとにして歩き、その取材旅行の報告を行います。

2010.「露研」の旅─富士河口湖温泉 その5

2010-04-16 06:36:35 | Weblog
北村透谷の「富士山遊びの記憶」は、『透谷全集』の第三巻に収められています。それによれば透谷の富士登山のコースは以下のようなものでした。東京→府中(甲州屋で昼食)→日野→八王子→川口村(秋山国三郎宅・二泊)→小仏峠→小原→吉野(鈴木屋で休憩)→関野→上野原→鶴川→野田尻→犬目(えびすやに宿泊)→犬目峠→鳥沢→猿橋→大月→谷村(やむら)→小沼(休憩)→下吉田→上吉田(羽田穂並宅に宿泊)→北口浅間神社→馬返し→烏帽子岩→八合目の岩室(宿泊)→頂上→お鉢めぐり→砂走→六合目→馬返し→上吉田。上吉田から東京への帰路は、ふたたび谷村を経て大月から甲州街道を利用したものと思われます。富士講の場合は、富士登頂後の下山コースは、一般的に須走口登山道を利用するものであり、足柄峠を越えて大山街道へと入るものですが、透谷の場合は往復とも甲州街道を利用するものでした。透谷が富士登山をしたのはいつのことであったかと言えば、この「富士山遊びの記憶」を書いた明治18年(1885年)夏のちょうど1年前のこと。7月24日に東京を出発して川口村の秋山宅に2泊。26日の朝、秋山宅を出発して犬目宿に泊。27日の朝、犬目宿を出立して上吉田に宿泊。28日、上吉田を出発して北口登山道に取り付き八合目の石室に宿泊。29日に登頂を果たしてお釜を一周し、上吉田に下山。上吉田に一泊して帰路に就いたということであれば、甲州街道を利用して八王子まで行き、そこから川口村の秋山宅にふたたび立ち寄った可能性は十分にある。上吉田から川口村までの道中で一泊していると考えるならば、透谷の「富士山遊び」は7月24日から31日にかけてのことになる(東京→富士山→八王子)。透谷が7年ぶりで川口村の秋山国三郎宅に赴いたのは明治25年(1892年)の7月27日から下旬にかけて。ということは8年前に富士登山をした時期とちょうど重なります。川口村までの道中、透谷は8年前に初めて登った富士山やその道中のことについても必ずや思い出しているはずだと私は考えます。なぜ彼は富士登山を志したのか。富士登山は彼にどういう意味を持ったのか。道中において道連れとなった富士講の道者たちとの語らいはどういうものであったのか。道中、彼が見た甲州街道筋のようすはどういうものであったのか。また道中彼が興味・関心をもったのはどういうものであったのか等々、とても興味あることです。 . . . 本文を読む