麹町に残っているお寺は、心法寺・常仙寺・栖岸院(せいがんいん)の三寺だけですが、その栖岸院は紀州藩附家老安藤家とその親戚筋にあたる旗本安藤家一族の菩提寺であるという。その安藤家の墓所には、石室に甕棺が埋葬されているものがあり、たしかに大名墓と推定されるものであるらしい。その写真パネルが掲示されていますが、「大名墓」というものはこういうものであることを知りました。
また「岩本町二丁目遺跡」というものがある。これはかつては「神田久右衛門町二丁目代地」であったところ。ここからの出土品が多数展示されていますが、私の目を引いたのは、「土錘(どすい)」や「紅皿(べにさら)」や「えな皿」といったもの。
「土錘」は、網のおもり。この「神田久右衛門町二丁目」というのは神田川沿いにありました。ということは、この「代地」の住人は、神田川で網漁をすることもあったということでしょう。
「紅皿」は、「紅」を置く皿。小さな皿にわずかばかりの色あざやかに紅が載っています。この紅皿を使って口紅を塗っていた女性が、確かに「神田久右衛門町二丁目代地」にかつて生活をしていたのです。
「えな皿」というのは、「えな」すなわち胎児を包んでいた膜や胎盤などを入れたもので、それをどうも当時の人々は家の下(地下)に埋葬したものであるようです。母親にとっては大事なもので、子どもの無事な成長や家の繁栄を願った縁起物という意味合いもあったようだ。
碁石やガラスベーゴマ、ガラスおはじきなども、当時の江戸の庶民(子どもたちを含めた)の暮らしぶりをうかがわせるものでした。
幕末、「平河町三丁目」には10数幹の獣肉店が並んでいたらしい。「獣肉」とは、たとえば、猪・鹿・狐・狼・熊・狸・川獺(かわうそ)・猫・山犬・鳶(とび)・烏(からす)・鵜(う)など。それらの多様な獣類が店頭に山積みされていたという。この獣肉店は、甲州街道をやって来た漁師が開いた市を起源とする、と解説がありました。
この麹町界隈は(「平河町三丁目」)は、甲州街道と深いつながりがあったということを示す、一つの面白い事例といっていい。
すでに見てきたように、番町を含む千代田区の区域の大半は、大名屋敷や旗本屋敷など武家地で占められていましたが、麹町には「御三家」の一つ尾張藩の麹町邸があって、その跡地である遺跡からは長屋裏のゴミ穴が見つかり、長屋(おもに下級の家来たちが住んだ長屋)の人々の食生活のようすが分かります。
それによると、ゴミ穴から出てきたもので最も多かったのは貝類で、ハマグリ・アサリ・シジミ・赤貝・バイ・サルボウガイ・サザエ・アワビなど。次に多かったのが魚鳥類の骨で、フグ・マダイ・ヒラメ・ガン・カモ・ニワトリ・キジ・キジバトなど。
そしてシカ・イノシシ・タヌキなどの獣骨類。
シカは「紅葉」、イノシシは「牡丹」。
シカやイノシシの肉は、「平河三丁目」に並んでいた獣肉店から購入していたのでしょうか。
いずれにしても、大消費都市江戸では、多種多様な食材が流通していたことがわかります。
さらに、「遠州あらい」「上々かつ本(鰹)のたたき」「進上納豆」「飛し本(ひしほ)」などの文字が記された板などが見つかっているということは、国元から献上されたり運ばれたりしてきた食品や物資が多かったことを示しています。
一通り、「資料館展示室」を見てまわりましたが、それほど広くはないスペースではありましたが、予想外にとても見応えがありました。東京(かつての江戸)の地中には、まだまだ膨大な遺物が眠っているようであるらしいことを感じさせるものでした。
その1階から地下へ下りていく階段があり、さらに展示物は続いていることを知りました。その「地下展示室」へ続く階段の壁には、「旧江戸城写真帖」と題された古写真がずらりと並べられており、これには強く興味・関心を引かれました。これらの写真は蜷川式胤(にながわのりたね)が横山松三郎らとともに明治維新期に撮影したもの。当時まだ残っていた江戸城やその各御門を撮影したもので、きわめて貴重なもの。
その写真が、階段上から地下展示室までずらりと並べられてあったのです。
それらの一枚一枚を、丁寧に見ていくことにしました。
続く
○参考文献
・『番町麹町「幻の文人町」を歩く』新井巌(彩流社)
・『中江兆民評伝』松永昌三(岩波書店)
・『明治の面影・フランス人画家ビゴーの世界』清水巌編著(山川出版社)
また「岩本町二丁目遺跡」というものがある。これはかつては「神田久右衛門町二丁目代地」であったところ。ここからの出土品が多数展示されていますが、私の目を引いたのは、「土錘(どすい)」や「紅皿(べにさら)」や「えな皿」といったもの。
「土錘」は、網のおもり。この「神田久右衛門町二丁目」というのは神田川沿いにありました。ということは、この「代地」の住人は、神田川で網漁をすることもあったということでしょう。
「紅皿」は、「紅」を置く皿。小さな皿にわずかばかりの色あざやかに紅が載っています。この紅皿を使って口紅を塗っていた女性が、確かに「神田久右衛門町二丁目代地」にかつて生活をしていたのです。
「えな皿」というのは、「えな」すなわち胎児を包んでいた膜や胎盤などを入れたもので、それをどうも当時の人々は家の下(地下)に埋葬したものであるようです。母親にとっては大事なもので、子どもの無事な成長や家の繁栄を願った縁起物という意味合いもあったようだ。
碁石やガラスベーゴマ、ガラスおはじきなども、当時の江戸の庶民(子どもたちを含めた)の暮らしぶりをうかがわせるものでした。
幕末、「平河町三丁目」には10数幹の獣肉店が並んでいたらしい。「獣肉」とは、たとえば、猪・鹿・狐・狼・熊・狸・川獺(かわうそ)・猫・山犬・鳶(とび)・烏(からす)・鵜(う)など。それらの多様な獣類が店頭に山積みされていたという。この獣肉店は、甲州街道をやって来た漁師が開いた市を起源とする、と解説がありました。
この麹町界隈は(「平河町三丁目」)は、甲州街道と深いつながりがあったということを示す、一つの面白い事例といっていい。
すでに見てきたように、番町を含む千代田区の区域の大半は、大名屋敷や旗本屋敷など武家地で占められていましたが、麹町には「御三家」の一つ尾張藩の麹町邸があって、その跡地である遺跡からは長屋裏のゴミ穴が見つかり、長屋(おもに下級の家来たちが住んだ長屋)の人々の食生活のようすが分かります。
それによると、ゴミ穴から出てきたもので最も多かったのは貝類で、ハマグリ・アサリ・シジミ・赤貝・バイ・サルボウガイ・サザエ・アワビなど。次に多かったのが魚鳥類の骨で、フグ・マダイ・ヒラメ・ガン・カモ・ニワトリ・キジ・キジバトなど。
そしてシカ・イノシシ・タヌキなどの獣骨類。
シカは「紅葉」、イノシシは「牡丹」。
シカやイノシシの肉は、「平河三丁目」に並んでいた獣肉店から購入していたのでしょうか。
いずれにしても、大消費都市江戸では、多種多様な食材が流通していたことがわかります。
さらに、「遠州あらい」「上々かつ本(鰹)のたたき」「進上納豆」「飛し本(ひしほ)」などの文字が記された板などが見つかっているということは、国元から献上されたり運ばれたりしてきた食品や物資が多かったことを示しています。
一通り、「資料館展示室」を見てまわりましたが、それほど広くはないスペースではありましたが、予想外にとても見応えがありました。東京(かつての江戸)の地中には、まだまだ膨大な遺物が眠っているようであるらしいことを感じさせるものでした。
その1階から地下へ下りていく階段があり、さらに展示物は続いていることを知りました。その「地下展示室」へ続く階段の壁には、「旧江戸城写真帖」と題された古写真がずらりと並べられており、これには強く興味・関心を引かれました。これらの写真は蜷川式胤(にながわのりたね)が横山松三郎らとともに明治維新期に撮影したもの。当時まだ残っていた江戸城やその各御門を撮影したもので、きわめて貴重なもの。
その写真が、階段上から地下展示室までずらりと並べられてあったのです。
それらの一枚一枚を、丁寧に見ていくことにしました。
続く
○参考文献
・『番町麹町「幻の文人町」を歩く』新井巌(彩流社)
・『中江兆民評伝』松永昌三(岩波書店)
・『明治の面影・フランス人画家ビゴーの世界』清水巌編著(山川出版社)