鮎川俊介の「幕末・明治の日本を歩く」

渡辺崋山や中江兆民を中心に、幕末・明治の日本を旅行記や古写真、研究書などをもとにして歩き、その取材旅行の報告を行います。

2010.3月取材旅行「徳富蘇峰が歩いた富士山東麓北郷村」 その6

2010-04-04 06:42:38 | Weblog
松元宏さんの「蘇峰が見た小山・御殿場の風景」によれば、大正2年(1913年)は、蘇峰がブレーンの一人であった桂太郎の第三次内閣が、憲政擁護運動の盛り上がりによって総辞職を余儀なくされ、また国民新聞社が市民による2度目の焼打ちを受けるなど、蘇峰にとって深刻な打撃を受けた年でした。この年6月頃、政争に打ちのめされた蘇峰は、画家の平福百穂(ひらふくひゃくすい)を伴って九州から瀬戸内海を旅行。京都で休養の予定であったところが、桂太郎重病の知らせを受けて急遽帰京。桂が小康状態になったのを見て、蘇峰は東海道線に乗って御殿場駅で下車。高根村の青龍寺で約1ヶ月の静養生活を送ることになりました。松元さんによると、この青龍寺滞在時のさまざまな見聞は、蘇峰にとって大きな転機をもたらすものであったという。どういうことかと言えば、「平民主義」から「国権主義」に転じた蘇峰が、その原点に立ち戻る契機になったというのです。「平民主義」は、士族層ではなく農村で生産に関わる豪農層など「田舎紳士」こそが将来の日本の担い手であるとするものでしたが、富士山東麓での見聞が、「傷心の蘇峰を癒すだけでなく、農村の『中産的生産者』たちに新たな期待をかけるきっかけになったのではない」かと松元さんは指摘します。松元さんは、蘇峰が小山・御殿場で見た風景を四つに整理しています。①刻々とダイナミックな姿を見せる富士山の雄大な景観。②木立・森(巨樹・老樹)・草花・畦道・水路・田圃など、農村における自然のたたずまい。③近隣の子どもたちの姿。④人々の生産・生活に関わる具体的な風景や事象(交通機関も含めて)。それらの風景などとの触れ合いや観察の中で、蘇峰は農村で生産に関わる人々に、あらためて期待をかけるようになったと松元さんは指摘する。ここで押さえておくべきことは、この富士山東麓一帯は、かつての富士山宝永大爆発による「砂降り」によって甚大な被害を受けたところであり、一世紀もの歳月をかけた粘り強い取り組みによって復興した地域であったということ。蘇峰は歩き回るたびにそのことを実感しています。8月3日、竹ノ下へ散歩に出掛けた時には「火山灰の堆積したるを見」てるし、8月4日、須走村では「宝永四年の大噴火の際には、殆んと全村を埋没」したことを知る。この13日も、「此辺概して宝永四年大噴火の痕を止(とど)め」ていることを実感しているのです。 . . . 本文を読む