鮎川俊介の「幕末・明治の日本を歩く」

渡辺崋山や中江兆民を中心に、幕末・明治の日本を旅行記や古写真、研究書などをもとにして歩き、その取材旅行の報告を行います。

2010.3月取材旅行「徳富蘇峰が歩いた富士山東麓北郷村」 その7

2010-04-05 07:19:47 | Weblog
ここでふたたび永原慶二さんの『富士山宝永大爆発』に戻りたい。蘇峰の歩いた北郷村にはどれほどの「砂降り」があり、どれほどの被害があったのか。一番降砂が堆積した村は須走村でおよそ3mの深さに達しました。「浅間神社入口の石の鳥居の上部横石の部分が、ようやく降砂上に顔を出すばかりであった」と伝えられており、「文字通りの全村壊滅」でした。この須走村の東方に海抜を徐々に下げて続く大御神(おおみか)村は、この須走に次いで1.5~2.0mほどの降砂に埋もれました。家の軒先に達する高さ。この大御神村の東に続く三国山南斜面の中日向・上野・湯船・柳島など、また須走村の南に続く水土野(みどの)・柴怒田(しばんた)・中畑・仁杉(ひとすぎ)などの村々では、それに次いで1.0~1.5mの積砂となり、以上の村々が最深砂地帯でした。つまり北郷村(現在の小山町)一帯は、降り砂が1.0~3.0mも堆積した「最深砂地帯」であったのです。雪が1mも積もった場合のことを考えれば、これがどれほどの事態であったか予測がつく。しかも白い雪ではなく黒褐色の噴火によるテフラ(砂や礫〔れき〕など)。雪はやがて消えるがテフラは消えない。それが野や畑や田んぼ、樹林地帯を覆い尽くしたのです。私は、中日向から上野へと続く新しい直線の舗装道路を、富士スピードウェイから聞こえて来る爆音を聞きながら歩いた時、その両側の三国山の麓に広がる田んぼや畑、また集落などを見ながら、これらが黒褐色の1m以上の積砂に一面埋もれている情景を想像せずにはいられませんでした。萱葺き屋根の上にも、黒い雪のように降砂が積もっています。いやその重みで茅葺屋根の民家は潰れてしまっているかも知れない。人々はどこに避難したのでしょうか。それとも屋根に積もっていく降砂を、総出で払い落としながら家が潰れるのを防いだのでしょうか。「降砂は耕地・道路・水路・山野といわず至るところを埋めてしまったから、農村の生産・生活基盤を完全かつ長期的に破壊しつくしたことに」なりました。永原さんによれば、小山町域で須走に次いでもっとも積砂の深い大御神・中日向・上野・上野新田・湯船・阿多野新田・棚頭・用沢・一色(いしき)・下小林・上古城・古沢・菅沼という三国山南面の一帯は、小田原藩の支藩大久保長門守教寛の知行地でした。つまり北郷村のほとんどはかつて長門守領であったということになる。 . . . 本文を読む