甲州街道を歩いて思ったことは、沿道にかつての人々のさまざまな信仰を示す石造物が多いということ。
とくに小仏峠を越えてからが多くなります。
おそらく江戸を出れば、甲州街道の道沿いには数多くの石造物があったものが、明治以後の道路の整備・拡張や市街地の拡大とともにそれらの石造物の多くは失われ、小仏峠に入るあたりから山間部へ入るために、東京郊外の市街地化の激しい波はようやく食い止められ、それからの甲州街道沿いに多くの石造物が残ることになったということであるでしょう。
その石造物の種類は多く、ざっと見てみてもたとえば次のような信仰に関わる石造物がありました。
廿三夜(二十三夜)塔
馬頭観世音
百万遍
道祖神
石地蔵
庚申塔
名号塔
至音塔
水天宮
念佛供養塔
牛頭観世音
七面大明神
蚕影山
秋葉山
山神
萬霊塔
石尊大権現
南無日蓮菩薩
地神
水神宮
…
これらの中でも圧倒的に多かったのは馬頭観音(観世音)と道祖神。
馬頭観音が多いのは街道筋において物資の運搬を担ったのが馬であったからであり、道祖神が多いのはそれが街道の村境や村の入口に祀られることが多かったからです。
馬頭観音や道祖神は全国のどの道筋でも見られたものであると思われますが、とくに甲州街道沿いには多く見られ、とりわけ道祖神については山梨県に入ると「丸石道祖神」が目立ってきます。
私が甲州街道を歩いて初めて丸石道祖神を見掛けたのは大月の手前の駒橋でした。
笹子峠に入る手前の笹子町原(吉久保)の稲村神社の境内には、「道祖神」と刻まれた文字碑と丸石、そして石棒が組み合わされた道祖神が目を惹きました。
天保12年(1841年)の4月3日(旧暦)、小仏峠を越えて関野宿の入口「梅澤」というところで休憩した広重は、「小松屋」という茶屋の店先で「陰陽の石、女夫石」を見掛けていますが、この「陰陽の石、女夫石」とは道祖神であると思われ、稲村神社境内の道祖神を見た時、広重の見掛けた道祖神はこのようなものであったのではないかと思いました。
関野宿を過ぎれば相模国と甲斐国の境である境川があり、境川を渡ればもうそこは甲斐国(郡内地方)でした。
丸石道祖神が郡内のどのあたりから分布していたのか私ははっきりとしたことは分かりませんが、甲州街道を歩いて見て初めて目にしたのは駒橋であり、少なくとも甲州街道駒橋宿(大月宿の手前)あたりには丸石道祖神の文化圏が及んでいたことがわかりました。
この丸石道祖神が目立って多く見られるようになるのは笹子峠を越えて国中(くになか)地方に入ってからでした。
そもそも私が丸石道祖神に関心を持ったのは、川崎市にある川崎市立日本民家園で「旧広瀬家住宅」を見たことから、その「旧広瀬家住宅」がもともとは現在の山梨県甲州市塩山上萩原にあったことを知り、また樋口一葉の父母の出身地が下萩原であったこともあって、上萩原や下萩原を訪ねたことにありました。
その際上萩原で丸石道祖神を見掛けて、道祖神にこのような種類のものがあるのかと感動したのがきっかけでした。
『旧広瀬家住宅 附山梨県甲州市塩山広瀬家民俗調査報告書』(川崎市立日本民家園)には、「道祖神祭り」について次のような記述があります。
「道祖神祭りはドウソジンバを中心として行われる。ここにヒノキとスギで『オコヤ』を作り、竹竿にオコンブクロ(お金袋)と、紙を切り刻んだ飾りを下げた。
『オコンブクロ』は四角い銭入れ、あるいは三角形の巾着で、紙や布を切って作る。これにはお金が貯まるようにという願いがある。
…紙を刻む御幣は、手先の器用な人が毎年作る。いくつかの種類があり、御神体としてコヤの中に設置されるもの、同じくコヤの中に飾られる赤いもの、小屋の棟に挿す赤い三角形のものの他、オベットウヤの若い当主がお祓いをする際に使用するひときわ大きいものもある。
『オベットウヤ』に当たると、若い当主がドウソジンサンの前でお祓いをした後、各家をお祓いして廻る。その後ろを子供たちが『カゴウマ(籠馬)』を持ちながら廻る。
…1月13日、米の粉でマユダンゴを作る。…マユの他、豊作を願ってカボチャ、ナス、キュウリなどの農作物、俵を3つ重ねたもの、札束などを作り、『オカイコをたくさん採れるように』『オダイジンになれるように』願った。
…1月14日の夕方、ドンドヤキを行う。この日オコヤを焼き、その火で各自が持ち寄ったマユダンゴを焼いて食べる。
…1月20日に道祖神のオヤマ(オコンブクロ)を『コロバス』。コロバシた後、オコンブクロをくじ引きで分けた。マユダンゴもこの日、棚とともに取り外した。外したものは煮たり焼いたりして食べたが、量がたくさんあるので1日では食べきれなかったという。」
明治以後養蚕が盛んに行われていた頃の上萩原地区の道祖神祭りの様子をうかがい知ることができます。
ここに出てくる「ドウソジンサン」が、「ドウソジンバ」にある丸石道祖神。
1月11日に、ヒノキとスギで「オヤマ」(「オコヤ」)がその「ドウソジンバ」に作られ、竹竿には「オコンブクロ」や紙の御幣が飾られる。
「オベットウヤ」に当たった若い当主が「ドウソジンサン」の前でお祓いをした後、各家をお祓いして回る。
1月14日には「オコヤ」を焼く(ドンドヤキ)。その火でマユダンゴを焼いて食べる。
そして1月20日には道祖神の「オヤマ」を倒す(コロバス)。
江戸時代の道祖神祭りの様子とはおそらく異なった部分がいろいろあると思われますが、一年の始まりにあたって農作物の豊作を願い、災厄(天災・病厄)を払う行事であったことがわかります。
上萩原は江戸時代においては甲斐国山梨郡上萩原村であり、笹子峠を越えて国中に入るとその北側にあり、甲州街道勝沼宿と深いつながりがありました。
先ほど笹子峠を越えると丸石道祖神が目立って多くなると記しましたが、駒飼宿近くの日影諏訪神社の境内や初鹿野の諏訪神社(日向宮)、また勝沼諏訪神社(等々力)や大宮五所大神(栗原)などで見事な丸石道祖神を見掛けました。
特に大宮五所大神の道祖神は丸石が集合したもの(「集合丸石道祖神」)で興味深いものでした。
続く
※写真は駒橋の丸石道祖神
〇参考文献
・『旧広瀬家住宅』(川崎市立民家園)