鮎川俊介の「幕末・明治の日本を歩く」

渡辺崋山や中江兆民を中心に、幕末・明治の日本を旅行記や古写真、研究書などをもとにして歩き、その取材旅行の報告を行います。

笛吹川流域の道祖神祭り その14

2018-02-22 08:08:56 | Weblog

 

 甘草屋敷(旧高野家住宅)の主屋に入って観覧料を支払った際、受付の人に蔵の中にあった「御山飾り」のことについてお聞きすると、甘草屋敷で行われた「春駒」の際に使われたものだとのこと。

 「春駒」とは何かとお聞きすると、かつて「一之瀬高橋」という集落で道祖神祭礼の時に行われていた踊りであるということでした。

 笛・太鼓・鉦(かね)のお囃子(はやし)に合わせて、竹で作った馬(春駒)の役と馬子のかっこうをした「露払い」の役が輪になって踊るらしい。

 一之瀬高橋でかつて行われていたが過疎化のために現地では行われなくなり、地元の人たちや町に出てきた人たちがこの甘草屋敷に集まって踊りや飾りの準備をし、毎年道祖神祭礼の時にこの甘草屋敷で踊るのだという。

 「庭で踊るんですか」

 「この主屋の中で踊ります」

 「日中ですか」

 「夕方に踊ります」

 「お飾りも一之瀬高橋の人が作っているんですか」

 「地元の人や外に出た人が集まってきて作っています」

 すでにその「春駒」の催しは終わって、「御山飾り」も蔵に片づけられたばかりだということです。

 「一之瀬高橋」はどこにある集落なのか、その時は聞いていませんでしたが、後で調べてみると国道411号(青梅街道)を丹波山(たばやま)村方面へ進み柳沢峠を越えた向こうにありました。

 私はまだ足を踏み入れたところがないところ。

 この「春駒」は一之瀬高橋の集落で道祖神祭りの時に行われた踊りであったのです。

 一之瀬高橋の道祖神場がどのようなものであるかはわかりませんが、その道祖神場には小正月になると「御仮屋」や「御山飾り」が設けられていたのでしょう。

 そして夜になると「春駒」が、おそらく笛・太鼓・鉦のお囃子とともに集落の家々を回って「御祝儀」を集めていたのです。

 「春駒」や馬子を演ずる人たちは道祖神祭礼の担い手である村の「若者組」(若い男たち)であったでしょう。

 しかし過疎化(少子高齢化や人口減少)のために道祖神祭礼は行われなくなり、この甘草屋敷を舞台に復活することとなり、一之瀬高橋に関わる人々がここに集まって「春駒」という道祖神祭礼の催しを維持していることになります。

 柳沢峠を越えて丹波山村や青梅へとつながる「青梅街道」沿いにある「一之瀬高橋」というところはどういうところか、またその地の道祖神場はどういうものであるのか、ぜひ訪れてみたいものだと思いました。

 甘草屋敷についての詳しい説明を案内ボランティアの方にお聞きした後、主屋の2階に上がってみると、その広い2階は民具の陳列場や生活道具や民具などの保管スペースになっていました。

 しかしかつては養蚕のスペースであったことが展示パネルから知ることができました。

 「農家の大切な収入源・養蚕(オカイコ)」と記された展示パネルによれば、昔の人はカイコのことを「オボコ」とか「オボコサン」とも呼んでいたとのこと。

 「オボコ」とは人間の赤ん坊のことであり、赤ん坊を育てるように養蚕農家の人々はカイコを大事に育てたのです。

 養蚕は農家にとって魅力的な現金収入源であったから、養蚕を営まない農家はなかったといっていいほどであり、土地の利用状況を見ても耕地の3分の1以上は桑畑が占めていたという。

 この甘草屋敷の高野家においても、甘草栽培のほかに大々的な養蚕が行われていたことがこの2階の広大なスペースからわかるとともに、その周辺の耕地もかなりの部分がかつては桑畑であったことが推測されました。

 主屋2階の窓からは庭の甘草畑の向こうにJR中央本線の塩山駅が見えました。

 後でうかがったところ、この塩山駅の敷地ももともとは高野家の畑であったということであり、おそらくその畑とは桑畑のことであったと思われます。

 またこれも後でうかがったことですが、高野家の前を通る道(「一葉の道」)は「青梅裏街道」ということであり、それは中萩原・上萩原などを経てその先で青梅本街道と合流していました。

 三富の西保下の牧平などで確認したように秩父街道にも本街道と裏街道があり、秩父裏街道は牧平や塩平を経由して秩父方面へとつながっていました。

 青梅街道も本街道と裏街道があり、甘草屋敷のある上於曽(かみおぞ)を通るこの道は裏街道であり、その道を南に向かえば下於曽や西広門田(「かわだ」と読む)などを経て等々力(とどろき)において甲州街道に合流していたのです。

 甲州街道の勝沼宿という物資の集散地から北へと延びる道がこの裏街道であり、かつては荷物を運ぶ多数の人馬が行き交う道であったのです。

 一之瀬高橋は、その青梅裏街道や青梅本街道を進んで柳沢峠を越えた先にある集落で、その街道の先には丹波山村があり、さらにその先は青梅や江戸に通じていたのです。



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