鮎川俊介の「幕末・明治の日本を歩く」

渡辺崋山や中江兆民を中心に、幕末・明治の日本を旅行記や古写真、研究書などをもとにして歩き、その取材旅行の報告を行います。

笛吹川流域の道祖神祭り その15

2018-02-23 08:15:39 | Weblog

 

  「甘草屋敷」(旧高野伊兵衛宅)の主屋を出た後、西隣にある「甲州市立甘草屋敷子ども図書館」に立ち寄りました。

 この建物はもともとは高野家の文庫蔵で、その文庫蔵を改造するとともに増築して貸家とし、青梅裏街道に面して雑貨や塩などの販売をする商店であったとのこと。

 従ってこの「子ども図書館」の建物の中には蔵(もともとは文蔵)があり、その1階も2階も図書館のスペースになっています。

 2階のスペースの南側は、障子から柔らかな陽射しが差し込む畳部屋になっていました。

 土日になると近所の子どもたちがやって来てよく利用するとのこと。

 こういう子ども図書館が近所にあるのはうらやましい。

 街道に面した1階のスペースはかつての商店の面影を残していました。

 子ども図書館を出た後、かつての「長屋」を利用した売店に入りました。

 この「長屋」も、文庫蔵を改造した建物(子ども図書館)とともに高野家の貸家であったようです。

 高野家は貸家経営による収入を得ていた時代があったことになります。

 売店には天井の梁や横に渡した棒から多数の「お飾り」のようなものが賑やかに垂れ下がっていました。

 天井の梁が垂れている「お飾り」を見上げると、上部には紅白に巻かれた円環があり、そのリングに7本の赤い糸(それらはまとめて梁ら結び付けられている)が渡されて、それぞれの糸にさまざまな「お飾り」が付けられています。

 その「お飾り」の中に赤ん坊の形をした人形がありました。

 この人形について売店のおばあちゃんに尋ねると、「這子児」(ホウコ)であるという。

 この人形を見て思い出したのは、富士吉田市域の道祖神祭りにおいて、御神木の頂きにボンテン(梵天)がくくり付けられ、その竹竿にはヒイチ(火打ち)と呼ばれる三角形の赤布の袋ややはり赤布で作られた猿の形の人形が飾られたということ。

 この猿の形の人形は、子どもに恵まれない家が子授けを祈願して奉納したもので、それをホウコウ(這子)と言ったというのです。

 赤色の猿人形は「オサル」「オトク」「オデク」などとも呼んだらしい。

 道祖神の御神木にはたくさんのヒイチやホウコウが飾られていたのです。

 この売店に飾られている「お飾り」のホウコは、頭が白い玉で衣服は赤いものであったり水玉模様であったりといろいろです。

 このホウコは、道祖神の御神木に飾られる赤色の布で作った猿人形を連想させるものでした。

 またリングから糸が垂れ下がり、その糸にいろいろなお飾りが結わえ付けられているのは道祖神の「御山飾り」を連想させるものでした。

 売店のおばあちゃんは塩山近郊のN村の出身ですが、かつては村は養蚕が盛んで若い時には桑の葉摘みで働いたこともあるとのこと。

 かつては米でまゆ玉団子や米俵、かぼちゃなどの野菜類をかたどった団子を作って五穀豊穣や桑(養蚕)、野菜などの豊かな実りを祈り、まゆ玉団子を道祖神祭りの「どんと焼き」で焼いたのを食べると1年間無病息災に過ごせると言われたという。

 「この通りは青梅裏街道で、本道はもっと西にある」「甘草屋敷の南にある塩山駅の敷地はもとは高野家の畑だった」と教えてくれたのもその売店のおばあちゃんでした。

 そのおばあちゃんは私に「ケカチ遺跡」から出土したという刻書文字のある坏(つき)を企画展示しているという釈迦堂遺跡博物館のパンフレットを私に見せてくれました。

 その刻書の中に「しけいと」という言葉が出てくるのですが、この「しけいと」というのは「けばのある絹糸」つまり「質の悪い絹糸」という意味であり、この刻書文字のある坏が作られた時代(10世紀の後半頃)に養蚕がこの「ケカチ遺跡」のあたりで行われていたことを示しているというのです。

 この坏に和歌を刻んだ人物は中央(都)からやって来た国司級の人物ではないかと考えられているといったこともそのおばあちゃんは教えてくれました。

 「ケカチ遺跡」というのは塩山の熊野神社近くにあり、そこで出土した刻書文字のある坏(和歌をヘラで坏に刻んだもの)が釈迦堂遺跡博物館で展示されており、それに「しけいと」という言葉が含まれているという話に強く興味がひかれ、帰りにはぜひ中央自動車道沿いの釈迦堂遺跡博物館に立ち寄ろうと思いました。

 平安時代にこのあたりで養蚕が盛んに行われていたということは、その時代からすでに桑が栽培されていたことを推測させます。

 その売店のおばあちゃんから塩山駅の駅前にも道祖神の「御山飾り」が立てられているというのを聞いて、「甘草屋敷」を出た後その塩山駅前(南口)に向かいました。

 

 続く

 

〇参考文献

・『富士吉田市史 民俗編 第2巻』(富士吉田市)



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