「流刑小屋」の案内板には以下のようなことが記されていました。
●加賀藩の流刑地として罪人が五箇山へ送られて来たのは寛文7年(1667年)が最初とされており、以来明治維新までの約200年間に150余人が送られてきた。
●流刑地は庄川右岸の7集落(猪谷・小原・田向・大島・篭度・大崩島・祖山)に限られる。
●藩は流刑人の逃亡を防ぐため庄川に橋をかけさせず、一人では往来できない篭(かご)の渡しを使わせた。
●流刑小屋には3種類あり、集落内に限って出歩ける平小屋、一歩も外へ出られないお縮小屋、小屋の中に更に狭い檻(おり)を作って閉じ込める禁錮。
●お縮小屋と禁錮は牢番が食事を柱の穴から差し入れるだけであった。
●田向(たむかい)の「流刑小屋」はお縮小屋で、明治以降は物置に利用されていたが昭和38年(1963年)の豪雪で倒壊したため古文書を参考にして復元したもの。
●全国的にも流刑小屋の遺構はなく貴重な民俗資料である。
つまりこの「流刑小屋」はもとのままではなく復元されたもの。
物置小屋として利用されていた「流刑小屋」は昭和38年の豪雪で倒壊したとありますが、この年の豪雪は「三八(さんぱち)豪雪」と言われ、私にも記憶があります。
私が生まれた福井市の家は木造1階建てでしたが、軒先あたりの高さまで雪が積もり、玄関からは雪の階段を上がって通り(雪の上の通り)に出たものでした。
屋根の雪かきを手伝い、屋根からすぐ下の雪の中に飛び込んだ記憶もあります。
降り積もった雪の上に電柱が列を作っており、それで道路のあるところを知ることができました。
ほかにもいろいろな記憶があるのですが、それほどに記憶に残る大雪が「三八豪雪」であったのです。
福井市内でさえそうであったから、この五箇山あたりでは相当の豪雪であったでしょう。
この田向の「流刑小屋」は加賀藩の流刑地として罪人が収容された小屋で、罪人は一歩も外へ出ることができない「お縮小屋」であったこともわかりました。
「お縮小屋」は「おしまりごや」と読むようです。
牢番が食事を柱の穴から差し入れるだけということから、罪人と他の人間との接触は極力避けられたことがわかります。
この田向の「流刑小屋」の場合、山の斜面に設けられており、両側には谷川が滝のように流れ落ちています。
近くに人家はあるものの孤立しており、そばを流れる谷川の音が絶えず聞こえてくる場所であったでしょう。
窓は頑丈な格子窓があったものと思われました。
屋根は茅葺の合掌造り。
このような茅葺屋根合掌造りの小屋は、相倉(あいのくら)や白川荻町、菅沼でも見られたもので、多くは物置小屋として利用されているようでした。
ただこの「流刑小屋」の場合は、牢獄であるということから壁も柱が格子状になっており頑丈な造りになっています。
その柱の中でも太い柱に真四角な(縦横20cmほど)穴が開けられており、これが牢番によって罪人に食事が差し入れられた箇所。
雪深い冬の間は、この小屋全体が雪で覆われることになります。
復元とはいえ、もともとあった場所に流刑小屋を見るのは初めてのことであり、流刑小屋はこういうものであったかと感慨深く外側から見物しました。
説明を読むと、庄川の左岸と右岸の往来は古来「篭の渡し」を利用していたものの、庄川右岸の7集落が流刑地になってからは流刑人が逃亡できないように藩の施策として橋が架けられなかったことがわかります。
それだけ庄川の両岸は絶壁となっており、川を泳いだり歩いたりして渡るのは困難であったのです。
橋が架けられないということは庄川右岸の集落にとってはかなり不便なことであったものと思われました。
それが江戸時代に入ってからも明治になるまで200年間ほども続いたことになります。
「流刑小屋」から橋を渡って国道156号に戻り、村上家よりやや先の左手にある「白山宮」(はくさんぐう)に立ち寄りました。
案内板によるとこの白山宮の本殿は県内(富山県)最古の木造建築物で国の重要文化財に指定されています。
白山宮はもともとは泰澄大師が人形山山頂にしたものを後に現在地に移転したものと伝えられているとのこと。
現在の本殿は、棟札から文亀2年(1502年)に建てられたものであるという。
拝殿の中にその本殿は置かれているとのことで観ることはできませんでした。
本尊は十一面観音菩薩で、「秘仏」として33年ごとにご開帳されているとのこと。
この白山宮本殿も含め、五箇山や白川郷の豪壮な茅葺合掌造り家屋や寺社などを建てた大工たちはどういう人々でどこからやって来たのか、その建築技術はどのように継承されたのかなどといったことが疑問として湧き起こって来ました。
白山宮に立ち寄った後、車を停めてある駐車場に戻り、今度は国道156号を白川郷方面へと南下して西赤尾の「岩瀬家」へと向かいました。
続く
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