まず表参道を少し戻って、土産物店のおばちゃんに声を掛けてみました。
「むかし電車が走っていたというのは、そこの広い通りですか」
「ええ、そこに駅があったらしいよ」
「いつまで走っていたんでしょう」
「私が生まれた頃にはなくなっていたから、それよりも前のこと」
おばちゃんは奥にいた年輩のおじさんを呼んで、いつまで走っていたかを聞いてくれました。
そのおじさんによると、戦時中までは走っていたが、戦時中の金属供出か何かで廃線になったのではないか、ということでした。
ということは戦後にはその姿を消していたということになります。
おばちゃんによると、現在は、その廃線跡をバスが走っているとのこと。
またむかしはこの参道は舗装されていなくて、砂利まじりの道であり、そこをバスが砂埃(すなぼこり)をあげて走っていたらしい。
店の人にお礼を言って、その「電車道」へと右折すると、左角に「米屋羊羹店 三橋哲郎商店」という看板が掛かる木造2階建ての羊羹店があり、その右横に「三橋」と書かれた看板の掛かる木造3階建ての店舗(漬物屋)が並んでいました。
バス停の名前は「成田山」。
同じく左手にあった、古くからあるように思われる小さな土産物店に入って、ふたたび「電車道」について聞いてみました。
すると、バス停のあたりにアーケードがあって、そこに電車の駅(「不動尊」駅)があったとのこと。
おばちゃんの話によると、このあたりは「本町(ほんちょう)」と言って、むかしは役場などもあり、ここが成田の中心であったという。
「参道沿いには、うなぎ屋さんが多いですね」
と話を向けると、「むかしはそんなに多くなかったけど、どんどん増えた」とのこと。増えたのはうなぎ屋さんだけでなく、参詣客相手のお店もどんどん増えて乱立気味になっているということでした。
電車はトンネルを抜け、駅前を経て宗吾霊堂までを走っており、小さな電車であったらしい。
戦時中に撤去され、おばちゃんもご主人も乗ったことはないということでした。
成田鉄道の成田駅が開業し、そこから宗吾霊堂や成田新勝寺に参詣する人々を運ぶ手段として造られた路線であったものの、戦時中にそのレールや金属を供出するために廃線となったものであるようだ。
「その電車が写っているような写真は残っているんでしょうか」
と聞いてみると、「お寺の中に図書館があるから、そこに行ったらあるかも知れない」とご主人が教えてくれました。
その「電車道」の突き当り真正面、表参道に面して建つ木造2階建ての商店には「ひぐらし」という看板があり、「瓜の鉄砲漬」とあるから漬物を売る漬物屋さん。
その店の前を左折し、「総門」を潜って、新勝寺境内へと入りました。
石畳の参道正面に階段があり、その上に「仁王門」があるのですが、まず目に付いたのは階段手前の両側にある石灯籠(常夜燈)。
その石灯籠の基壇に、「那珂湊 元講中」という文字がくっきりと刻みこまれています。
「那珂湊」はかつて取材旅行で歩いたことがありますが、水戸藩の城下町である水戸の外港としての要衝地であり、廻船問屋が軒を並べる、経済力の大きな町であったことが、その市内のお寺やその墓地の様子からも察することができました。
この石灯籠は、その那珂湊の「成田講」の人々が寄進したもの。いつ頃のものかはわかりませんが、おそらく江戸時代後半のものであるでしょう。
階段上の左手には、「永代大護摩修行龍王桐生講」と彫り出された大きな石碑様のものがあり、その表面には7段にわたってびっしりと講のメンバーの名前が刻まれています。
桐生の「成田講」のメンバーの名前が、500名近くは記されているのではないか。
その基壇には「上州桐生」と刻まれています。
「桐生」と言えば、「上州」きっての織物の町。この石碑もいつ頃のものかはわからない。
階段を上がったところにある「仁王門」の両側の石製の欄干には、朱色の、「鳶」や「せ組」、「百組」といった文字や、人名が目立つ。
「仁王門」を潜った両側には、「品川 永續講」と刻まれた常夜燈(石灯籠)。
これらの石造物から伺われるのは、関東地方や江戸の「成田講」の勢力の強大さ。
江戸を中心とした「江戸地廻り経済圏」と、「成田講」の重なりといったものであり、それは「成田講」にとどまらない。「大山講」や「富士講」、「出羽三山講」などとも重なっています。
「成田講」も、当時の旅事情を考えれば、「代参講」であったと思われますが、「江戸地廻り経済圏」において、江戸期半ば頃から急速に成長してきた庶民の経済力と、交通網の発達が、各種の「代参講」を生み出してきたものと思われます。
特に「成田講」の新勝寺参詣や、「東国三社詣(さんしゃもうで)」の流行は、利根川を中心とする利根川系水運と深い関係があるものと思われました。
「仁王門」を潜った正面にあるのが「大本堂」ですが、それは一瞥して、右手の「三重塔」や「鐘楼」の前を通り、まず、「成田山公園」に入ってみることにしました。
続く
○参考文献
・『房総の道 成田街道』山本光正(聚海書林)
・『房総の歴史街道を旅する 千葉の道千年物語』(千葉日報社)
・『河岸に生きる人びと 利根川水運の社会史』川名登(平凡社)
「むかし電車が走っていたというのは、そこの広い通りですか」
「ええ、そこに駅があったらしいよ」
「いつまで走っていたんでしょう」
「私が生まれた頃にはなくなっていたから、それよりも前のこと」
おばちゃんは奥にいた年輩のおじさんを呼んで、いつまで走っていたかを聞いてくれました。
そのおじさんによると、戦時中までは走っていたが、戦時中の金属供出か何かで廃線になったのではないか、ということでした。
ということは戦後にはその姿を消していたということになります。
おばちゃんによると、現在は、その廃線跡をバスが走っているとのこと。
またむかしはこの参道は舗装されていなくて、砂利まじりの道であり、そこをバスが砂埃(すなぼこり)をあげて走っていたらしい。
店の人にお礼を言って、その「電車道」へと右折すると、左角に「米屋羊羹店 三橋哲郎商店」という看板が掛かる木造2階建ての羊羹店があり、その右横に「三橋」と書かれた看板の掛かる木造3階建ての店舗(漬物屋)が並んでいました。
バス停の名前は「成田山」。
同じく左手にあった、古くからあるように思われる小さな土産物店に入って、ふたたび「電車道」について聞いてみました。
すると、バス停のあたりにアーケードがあって、そこに電車の駅(「不動尊」駅)があったとのこと。
おばちゃんの話によると、このあたりは「本町(ほんちょう)」と言って、むかしは役場などもあり、ここが成田の中心であったという。
「参道沿いには、うなぎ屋さんが多いですね」
と話を向けると、「むかしはそんなに多くなかったけど、どんどん増えた」とのこと。増えたのはうなぎ屋さんだけでなく、参詣客相手のお店もどんどん増えて乱立気味になっているということでした。
電車はトンネルを抜け、駅前を経て宗吾霊堂までを走っており、小さな電車であったらしい。
戦時中に撤去され、おばちゃんもご主人も乗ったことはないということでした。
成田鉄道の成田駅が開業し、そこから宗吾霊堂や成田新勝寺に参詣する人々を運ぶ手段として造られた路線であったものの、戦時中にそのレールや金属を供出するために廃線となったものであるようだ。
「その電車が写っているような写真は残っているんでしょうか」
と聞いてみると、「お寺の中に図書館があるから、そこに行ったらあるかも知れない」とご主人が教えてくれました。
その「電車道」の突き当り真正面、表参道に面して建つ木造2階建ての商店には「ひぐらし」という看板があり、「瓜の鉄砲漬」とあるから漬物を売る漬物屋さん。
その店の前を左折し、「総門」を潜って、新勝寺境内へと入りました。
石畳の参道正面に階段があり、その上に「仁王門」があるのですが、まず目に付いたのは階段手前の両側にある石灯籠(常夜燈)。
その石灯籠の基壇に、「那珂湊 元講中」という文字がくっきりと刻みこまれています。
「那珂湊」はかつて取材旅行で歩いたことがありますが、水戸藩の城下町である水戸の外港としての要衝地であり、廻船問屋が軒を並べる、経済力の大きな町であったことが、その市内のお寺やその墓地の様子からも察することができました。
この石灯籠は、その那珂湊の「成田講」の人々が寄進したもの。いつ頃のものかはわかりませんが、おそらく江戸時代後半のものであるでしょう。
階段上の左手には、「永代大護摩修行龍王桐生講」と彫り出された大きな石碑様のものがあり、その表面には7段にわたってびっしりと講のメンバーの名前が刻まれています。
桐生の「成田講」のメンバーの名前が、500名近くは記されているのではないか。
その基壇には「上州桐生」と刻まれています。
「桐生」と言えば、「上州」きっての織物の町。この石碑もいつ頃のものかはわからない。
階段を上がったところにある「仁王門」の両側の石製の欄干には、朱色の、「鳶」や「せ組」、「百組」といった文字や、人名が目立つ。
「仁王門」を潜った両側には、「品川 永續講」と刻まれた常夜燈(石灯籠)。
これらの石造物から伺われるのは、関東地方や江戸の「成田講」の勢力の強大さ。
江戸を中心とした「江戸地廻り経済圏」と、「成田講」の重なりといったものであり、それは「成田講」にとどまらない。「大山講」や「富士講」、「出羽三山講」などとも重なっています。
「成田講」も、当時の旅事情を考えれば、「代参講」であったと思われますが、「江戸地廻り経済圏」において、江戸期半ば頃から急速に成長してきた庶民の経済力と、交通網の発達が、各種の「代参講」を生み出してきたものと思われます。
特に「成田講」の新勝寺参詣や、「東国三社詣(さんしゃもうで)」の流行は、利根川を中心とする利根川系水運と深い関係があるものと思われました。
「仁王門」を潜った正面にあるのが「大本堂」ですが、それは一瞥して、右手の「三重塔」や「鐘楼」の前を通り、まず、「成田山公園」に入ってみることにしました。
続く
○参考文献
・『房総の道 成田街道』山本光正(聚海書林)
・『房総の歴史街道を旅する 千葉の道千年物語』(千葉日報社)
・『河岸に生きる人びと 利根川水運の社会史』川名登(平凡社)
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