鮎川俊介の「幕末・明治の日本を歩く」

渡辺崋山や中江兆民を中心に、幕末・明治の日本を旅行記や古写真、研究書などをもとにして歩き、その取材旅行の報告を行います。

2011.12月取材旅行「成田および佐倉」 その5

2011-12-19 05:32:18 | Weblog
 「成田山公園」と書かれた門を潜る舗装された遊歩道が丘陵の奥へと延びています。すぐ左手に「ここはお不動さまのお庭です」という立て札が立っていて、それには禁煙マークが描かれています。

 松尾芭蕉の句碑も。刻まれているのは「丈六に陽炎高し石の上」という句で、建立されたのは天明9年(1788年)。ちょうどそれから100年前の貞享5年(1688年)、芭蕉が、旅の途中の新大仏寺で詠んだものという。

 まもなく遊歩道両側に目立ってきたのは、「金百圓」とか「金五百圓」、あるいは「永代御膳料」などと刻まれた記念碑。大小の石碑がずらりと並んでいます。そしてそのおのおのに寄進者の名前や、また寄進した講の名前などが刻まれています。

 この記念碑の林立で想起したのは、富士山の登山道沿い(特に浅間神社境内など)にやはり林立していた登山記念碑。刻まれている文字は異なるものの、石造物(記念碑)を造って信仰地の域内に置くという発想は共通します。

 記念碑(石碑)だから、寄進したことや登山回数などを、個人名や講名とともに永世に残そうとしたもの。

 やはり左手に、高浜虚子の句碑もありました。刻まれている句は、「凄かりし 月の団蔵 七代目」というもの。案内板によると、この句碑のところには七代目団十郎と六世団蔵の銅像があったものの、戦時中に供出されたのだとのこと。

 確かにその句碑のある台座には、右側に「六代目團蔵像」、左側に「七代目團十郎像」という文字のある銅板がはめ込まれています。

 「戦時」「供出」という文字から連想したのは、「成宗電気鉄道」のこと。「成宗電気鉄道」も、戦時中に廃線となり、「戦時供出」されたらしいということを、先ほど聞いたばかりでした。

 寄進記念碑の林立を見ながら、やがて広場に出る手前左側に「鈴木三重吉文学碑」もありました。

石碑に刻まれている文章は、「古巣はさびても 小鳥はかよふ 昔忘れぬ屋根の下」というもの。鈴木三重吉は、青年時代に、成田中学校で英語教師をしていたことがあるという。

 古いものかと思ったら比較的新しく、平成6年(1994年)6月に、「鈴木三重吉文学碑を建てる会」によって建てられたものでした。

 「成田山公園案内図」によると、左手へと下りて行ったところに「文殊の池」「竜樹の池」「竜智の池」と3つの池が連なり、その向こうに「平和の大塔」や「書道美術館」があるらしい。そしてその池の上(「文殊の池」の西側)には、「雌滝」や「雄滝」という滝もあるようです。

 降り積もった枯葉を踏みながら坂道を下ると、「竜智の池」が現れ、そこには池に突き出た「浮御堂」がありました。

 快晴ではあるものの冬枯れた景色で、歩いている人も少ないのですが、新勝寺大本堂周辺の混雑とは対照的であり、紅葉の名残もあって落ち着いた雰囲気を漂わせています。

 地形的に見ると、この新勝寺の境内地は、一つの大きな丘陵地を利用していることに気付きます。「成田道」沿いやJR成田線の沿道には、あちこちに大小の丘陵(標高はあまり高くない)が点在していますが、人家はその丘陵と水田が接するところや、あるいはその丘陵上にあったりします。

 成田山新勝寺があるところは、成田駅から進んで行けば、丘陵上から道(「成田道」「表参道」)を下り、そのゆるやかな坂道を下りきったところの左手に「総門」があり、その「総門」を潜って階段を上がって、その階段の上の「仁王門」を潜ると、その正面に「大本堂」があることになります。

 そして「成田山公園」は、その「大本堂」の右手をさらに上へと登っていたところに広がり、その丘陵内の窪地に、3つの池が造られていることになります。

 その3つの池を左手に見ながら遊歩道を進んで行くと、やがて樹林地帯へと入り、「御滝不動尊・洗心堂」と記された立て札が現れました。

 その立て札には、次のように記されていました。

 「この浄域には洗心堂(修行道場)を中心に雄飛の滝(右奥)と雌滝(左手前)が配され、滝の上部は御滝不動尊が奉安されています。二つの滝は深山幽谷より里への流れを表す公園の源流にあたり、自然の木々に包まれ、静寂の中、不動明王の大威神力(だいいじんりき)とともに滝の音に心が洗われる霊地です。」

 「真言密教」ということを考えると、この二つの滝のあるあたりが「修行」の場であり、その滝の存在が、この丘陵に「修行道場」が置かれた最大の理由ではないかと思われてきました。


 続く




最新の画像もっと見る

コメントを投稿