鮎川俊介の「幕末・明治の日本を歩く」

渡辺崋山や中江兆民を中心に、幕末・明治の日本を旅行記や古写真、研究書などをもとにして歩き、その取材旅行の報告を行います。

笛吹川流域の道祖神祭り その17

2018-02-26 07:28:23 | Weblog

 

 熊野神社はJR塩山駅から南方向、国道411号沿いにありました。

 甲州市塩山下於曽(しもおぞ)の南が熊野というところで、その鎮守が熊野神社。

 駐車場に車を停めて境内に入るとすぐに道祖神の御仮屋とその前に立つ2つの箱行灯が目に入りました。

 箱行灯には「商売繁盛」「家内安全」などと墨書されています。

 道祖神の御仮屋は杉葉で作られており、その頂きはちょんまげの先から杉葉が髪のように前へ垂れ下がっています。

 形としては藤木の道祖神と似ていますが、ちょんまげは藤木のように長く突き出てはいません。

 御仮屋の真ん中の窓はなぜかビニール袋が詰められており、その左側に「道祖大神」と墨書された紙が貼られた木箱のようなものが置かれています。

 御仮屋の右横には紙袋がいくつか置かれていました。

 中には正月に使われたお飾りなどが入っているのでしょう。

 「どんど焼き」の際に燃されるもの。

 横に回ると「ちょんまげ状」のものがよくわかります。

 裏手に回ると御仮屋を支える竹柱が3本あり、前にも2本あるから、この杉葉の御仮屋は5本の竹柱を立ててそれらを支えとし、竹柱と杉葉の回りに細縄をめぐらして固定していることがわかります。

 御仮屋の両側には石塔が立ち、その表面に刻まれた文字は詠み難くなっていますが、右手のは「山神宮」、左手のは「水神宮」であるように思われました。

 その背後にある熊野神社は窪八幡神社の本殿や拝殿などと共通する雰囲気を漂わせていました。

 一般的な「村の鎮守さま」の風格をはるかに超えています。

 案内板によると、神社の創立は明らかでないものの社記によれば大同2年(807年)に紀州熊野より勧請され、熊野郷の鎮守として成立。

 さらに後白河法皇の勅により熊野神社の規矩をとって社殿を建立したものと伝えられているという。

 拝殿1棟と本殿2棟は国の重要文化財。

 本殿は6社が東西に並列しており、そのうち2棟(東側に並ぶ2社)が鎌倉時代の末期の建造と考えられ、拝殿も室町時代後期に建立されたものと考えられるとのこと。

 拝殿は窪八幡神社の拝殿と共通したもの。

 鎌倉時代と室町時代の神社建築がここには残っていることになります。

 またこの熊野神社には4枚の絵画が保存されており、それらはいずれも武田家から奉納されたものと伝えられているとのこと。

 恵林寺といい窪八幡神社といい、またこの熊野神社といい、いずれも武田家と深い関係がある寺社であり、塩山の近辺には武田家と関わる貴重な文化財が多いことがわかりました。

 この熊野神社の周囲は果樹園(ぶどう畑)が宅地化されていますが、もともとは桑畑が一面に広がっていた畑地であったと思われました。

 JR中央本線は、勝沼ぶどう郷駅から山梨市駅にかけて大きく弧を描くように右から左へと旋回していき、左手の窓外に扇状地の広がりや富士山の頂きを眺めながら進んでいきます。

 熊野はその左手に見える扇状地の中ほど(塩山駅の南側)に位置しており、その扇状地を形成した川は重川(おもがわ)という川であるようです。

 熊野はその重川の右岸の扇状地上に位置しています。

 恵林寺や窪八幡神社は笛吹川沿いにあり、熊野神社は重川沿いにあり、塩山の町はその間に位置しています。

 恵林寺・窪八幡神社・熊野神社は、笛吹川そして重川が山間(やまあい)から扇状地に出たところに位置しており、塩山の町もそのような場所に位置しています。

 「ケカチ遺跡」はその熊野神社近くにあるというから、「ケカチ遺跡」のある場所は熊野神社が鎮座する熊野郷にあったものと考えられ、当時(10世紀後半)においても経済的・文化的にそれなりの豊かさをもったところであったのではないかと思われました。

 この熊野神社に立ち寄った後、道祖神祭りの一環として「どんど焼き」や「太鼓乗り」が行われるという藤木の放光寺の駐車場へと向かいました。

 

 続く

 



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