鮎川俊介の「幕末・明治の日本を歩く」

渡辺崋山や中江兆民を中心に、幕末・明治の日本を旅行記や古写真、研究書などをもとにして歩き、その取材旅行の報告を行います。

笛吹川流域の道祖神祭り その16

2018-02-25 07:43:36 | Weblog

 

 JR塩山駅の南口ロータリーに出ると、その西側に道祖神の「御山飾り」が立ち、その傍らのモニュメントのような大きな石碑に丸石が載っていました。

 モニュメントのような石碑に近付くと、丸石の下に「道祖神」とあり、その下に「於曽道祖神の由来」と記してありました。

 その左右には「家内安全」「猿田彦命」「商売繁盛」「無病息災」などと墨書された六角形の行灯が立ち、また由来碑の左側には真新しい双体道祖神が置かれていました。

 「於曽道祖神の由来」によれば、塩山市(現在は甲州市)の上於曽(かみおぞ)字(あざ)浄土寺地区の道祖神のご神体は往古から峡東地方に多い丸石神で、通称「於曽道祖神」として人々の信仰をうけてきました。

 この平成の双体道祖神は、地域の繁栄と安全を祈り美しい自然環境に恵まれた塩山市を環境破壊から守り、未來を託す子供達に残すことを願い、塩山駅南口の区画整理事業の完成を機会に建立したものであるとのこと。

 つまりこのモニュメントのメインは新しくつくられた双体道祖神にあり、地域の繁栄や安全、美しい自然環境の保全を願うものであることがわかります。

 「御山飾り」はそのモニュメントの左横にあり、コンクリート製の幟枠から青竹が立てられてその枝に紙製の立体的なお飾りが多数付けられています。

 青竹の柱は三方から伸びている縄でもさしっかりと支えられています。

 立体的な紙製のお飾りが何を形象しているかはよくわかりません。

 澄み切った青空を背景に色鮮やかな「御山飾り」がすがすがしく立っています。

 モニュメントの左前や右横には新しい板材が積み上げられたり立て掛けられたりしており、ここが「どんど焼き」の場でもあることを示しています。

 つまりここはJR塩山駅南口に設けられた新しい「道祖神場」であるのです。

 夜にはこの広場で「どんど焼き」が行われるのでしょう。

 このモニュメントを見た後、駅前のお店で遅めの昼食(ほうとう)を摂り、駐車場に戻ってふたたび車に乗り込んで「熊野神社」へと向かいました・

 なぜ熊野神社かと言えば、甘草屋敷の売店のおばあちゃんからこの熊野神社近くの「ケカチ遺跡」から刻書文字のある坏(つき)が発掘された(現在遺跡の発掘現場は埋め立てられている)ということを聞いたからでした。

 「ケカチ」というと「飢餓」という言葉を連想します。

 なぜ「ケカチ遺跡」なのか。

 坏に刻まれているひらがな文字の和歌の中に「しけいと」という言葉があり、その「しけいと」とは「粗末なけばのある絹糸」という意味であり、10世紀の後半においてこのあたりで養蚕や絹織物生産が行われていたことを示しています。

 「ケカチ」(飢餓)と絹織物生産は結びつかないような気がします。

 では「ケカチ遺跡」の近くにあるという熊野神社はどういう神社であるのか確かめてみたいと思ったのです。

 パンフレットによると、坏(つき)にヘラで刻まれたひらがな文字の和歌とは次のようなものでした。

 「われにより おもひいく□らん しけいとの あはすや□なば ふくるはかりそ」

 (我により 思ひ繰るらむ 絓糸の 逢わずやみなば 更くるばかりぞ)

 〔私の方から思いを括り合わせよう 

  しけ糸のように縒り(寄り)合う(逢う)ことのないまま

  離れ離れで終わってしまうならば

  ただ更けていく(歳が過ぎる)ばかりです〕

 ひらがな文字の和歌を刻んだ品物(坏)を贈って別れを惜しむ文化、それを受け入れる地方の役人(豪族)たちの文化の高さ(教養)、またその地域の経済力といったものをこの和歌は示しており、きわめて興味深いものでした。

 

 続く

 

〇参考文献

・釈迦堂遺跡博物館の「ケカチ遺跡」出土の刻書文字に関するパンフレット



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