鮎川俊介の「幕末・明治の日本を歩く」

渡辺崋山や中江兆民を中心に、幕末・明治の日本を旅行記や古写真、研究書などをもとにして歩き、その取材旅行の報告を行います。

2008.1月「箱根湯本~元箱根」取材旅行 その1

2008-01-28 06:50:10 | Weblog
 6:02に小田急線座間駅から箱根湯本駅行きの普通電車に乗車。6割方の乗車率。外はまだ暗く、目を閉じてやがてウツラウツラしているうちに小田原駅に到着(6:53)。しばらく停車した後、電車はふたたび動き出し箱根湯本駅に7:11に到着しました。

 外はすっかり明るくなり、見上げる空も青い。天気予報通り快晴のよう。

 まだ人気(ひとけ)の少ない土産物屋が並ぶ通りを進み、左手に前回お土産を購入した「山安のひもの」を左手に見て、「滝通り温泉郷入口」を左折。早川に架かる湯本橋を渡って温泉街を抜け、湯本橋より1つ上流にある旭橋方面へ。この旭端には、「土木学会選奨土木遺産」という金属パネルがはめ込まれていました。

 パネルには「昭和初期としては珍しい鉄筋コンクリート造りのシェルターで王宮をイメージした洞門とアーチの美しい2つの橋が、技術とデザインに優れた歴史的土木構造物として評価されたもの」

 とありました。

 形式は、鉄筋コンクリートタイドアーチ橋  橋長は39,5m  竣工は昭和8年(1933年)でした。

 車では何度もこの橋を渡っていますが、詳細を知ったのは今回が初めて。この旭橋は「かながわの橋100選」にも選ばれていました。デジカメで写真を数枚撮影しました。

 この旭橋の前身はおそらく国道1号線の開設の際に架けられたもので、もともとあった場所はもう少し下流で、馬車鉄道湯本駅ないし電気鉄道湯本駅を下りてすぐにあり、箱根温泉の玄関口になっていました。その旭橋を渡ると板塀に囲まれた洋風の福住旅館が建っていました。左手が明治10年(1877年)に完成した南棟の金泉楼、右手が明治12年(1879年)に完成した万翠楼。その両棟の間が玄関となっており、これが横浜駅や東京第一国立銀行などを参考に設計されたものであることは、以前に触れたことがあります。

 この旭橋からもと来た道を戻ると、右手に熊野神社というのがあり、そこへ入っていくと右手に「箱根温泉発祥之地」の碑。そしてその碑の右手には「連歌師宗祇終焉の地」の案内板。宗祇(そうぎ)は、文亀2年(1502年)に湯本の旅寓で亡くなったとのこと。82才。当時においては驚異的な長命です。

 神社の裏山は湯坂山。箱根温泉は奈良時代にこの辺りで見つかったらしい。小田原北條氏もよく訪れ「北條氏の湯」と言われたとも。熊野神社は、紀州の熊野権現を勧請(かんじょう)して湯場の鎮守として祀ったものだという。

 熊野神社の右手に「誠明翁詠歌」が刻まれた石碑がありました。詠歌は、「ふる道につもる木の葉をかきわけて天照神のあし跡を見む」というもの。「誠明翁」とは二宮尊徳のこと。その戒名「誠明院功誉報徳中正居士」による。尊徳の高弟の一人、福住正兄が建立した碑で、筆は尊徳の娘である文子によるもの。

 福住正兄は、箱根湯本の福住旅館に養子に入った人物で、湯本村に「報徳精励社」を作って「報徳仕法」によって村を再興。旭橋を渡ったところに洋風の福住旅館を建設したのはこの福住正兄でした。

 戻る途中、「平賀敬美術館」の建物を一見。この建物の内部は、以前にテレビで紹介されていて観たことがある。塀に案内板が掲げられていました。それによると明治時代後期に建造された建物で、井上馨・犬養毅・近衛文麿などの元老・重臣たちがせ逗留したという。2003年に国の登録有形文化財に指定されたとのこと。「萬翠楼福住所有」とありました。写真を数枚撮影。

 弥栄橋を渡り早雲寺へ。

 「玉庭」前で左折。

 (仮称)アデニウム箱根湯本新築工事現場の右手を過ぎて左折すると、そこが「早雲公園」。スダジイやウラジロガシが植生し、またヒメハルゼミの生息地で、神奈川の天然記念物「早雲寺林」に指定されているとのこと。

 そこからもとの道に戻り早雲寺に向かうと、右手に「町指定天然記念物 ヒメハルゼミとその棲息地」の案内板がありました。この「ヒメハルゼミ」というセミがなかなか面白い。


 続く


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