鮎川俊介の「幕末・明治の日本を歩く」

渡辺崋山や中江兆民を中心に、幕末・明治の日本を旅行記や古写真、研究書などをもとにして歩き、その取材旅行の報告を行います。

甲斐の道祖神と道祖神祭礼 その4

2017-12-19 07:36:06 | Weblog

 

 『甲斐の道祖神考』(山寺勉)によれば、道祖神祭礼の行事の内容は、①おかたうち②水あびせ③獅子舞④薪集め⑤どんど焼⑥繭玉造。

 道祖神祭礼の飾りは①お山②左義長③吹流④幟⑤飾幕⑥万灯⑦おかりや

 でした。

 行事内容の④の「薪集め」は「どんど焼」に使うもので、『富士吉田市史 民俗編』によれば、大明見では子供たちは「正月すんだら松おくれ」と言って、家々から門松や飾り物、薪などをもらい集めたという。

 ⑥の「繭玉造」は、米の粉でマユの形のマユダンゴを作ること。甲州市塩山(上萩原)ではかつてマユの他、豊作を願ってカボチャ、ナス、キュウリなどの農作物、俵を3つ重ねたもの、札束などを作り、「オカイコをたくさん採れるように」「オダイジンになれるように」と願ったとのこと。

 「繭玉造」は、現金収入の重要な手立てである養蚕の豊作を願うものであったでしょう。

 山間部が多い甲斐国は養蚕地帯でもありました。

 上萩原では、マユダンゴはミカンやコロガキ(干し柿)などとともに、肌のきれいなリョウブの枝にさし、イドコ(食事などをする場所)に設置してあるカイコの「カゴダン(籠段)」に美しく見えるよう横向きに挿して飾りました。

 飾りの①の「お山」とは「御神木」のこと。これは一般には1月13日に村中総出で綱を引いて垂直に立てられました。

 御神木の木は高さ10mほどもある杉やヒノキの丸太。

 御神木の頂には杉葉を飾り、そこから4本の縄を下げて、十字に交叉させた竹竿(これをテンダナ〔天棚〕という)の四隅を吊り下げました。

 竹竿にはヒイチ(火打ち)と呼ばれる三角形の赤布の袋がたくさん吊り下げられ、そのほかに赤布で作られた猿の形をした人形(厄年の人々が奉納したもの)もくくりつけられ、オシメ(御注連)や吹き流しなども多数飾られました。

 この「お山」(御神木)の傍らでは13~16日の毎夜、行事内容の⑤の「どんど焼」が行われ、子供らが家々から集めた薪や正月の飾り物、飾り物などを焚きあげました。

 この火にあたると風邪を引かないと言われ、子供らはマユダンゴ(メーダマ団子)を持ってきて枝ごと焼いて食べたという。

 赤布で作られた猿の人形は「ホウコウ(這子)」と言われ、子供に恵まれない家が子授けを祈願して奉納したものでもあったという。

 ヒイチ(火打ち)やホウコウを奉納するのは厄年の人や新婚夫婦であるとされ、厄払いや子授けの願いが込められたものであったでしょう。

 『富士吉田市史 民俗編』には、次のような記述も見られます。

 「厄病神が家ごとの災厄を帳面に写していくが、厄病神はこの帳面を道祖神(猿田彦命)にいったん預けていくとされ、その道祖神はドンドン焼きの火で帳面もろとも丸焼けにされてしまうと言われる。」

 予定されていた1年の災厄は、道祖神祭礼のドンドン焼きですっかり焼き払われてしまうということであるでしょう。

 上吉田では、「馬鹿よ馬鹿よ道祖神は馬鹿よ サイの河原は火事を出して道祖神は丸焼けだ」「サイノカミは火事を出して道祖神は丸焼けだ」とドンドヤキの際にはやされるといいますが、「ドンドン焼き」によって災厄が払われるわけだから、「馬鹿」な「道祖神」は人々によって愛され親しまれる神であったのです。

 飾りの⑦の「左義長」は一般には「ドンド焼き」のことをさしますが、ここでは「左義長柱」のことでしょうか。

 ⑦の「おかりや」とは、『富士吉田市史』によると、戦前においてはドンド焼きの火のかたわらに竹とムシロで小屋がけし子供らがオコモリをしたとあり、小屋の中では汁粉や甘酒を飲み、夜通し太鼓をたたいて子供が騒いだという。

 「おかりや」とは道祖神場(道祖神がある広場)に竹や筵(むしろ)で作られた仮小屋のことであるでしょう。

 『富士吉田市史 民俗編』によると、戦前においては火の脇で若衆が村芝居や民謡大会を催したこともあるとあり、「ドンド焼き」が行われている間は、道祖神場はいろいろな催しが行われたり太鼓が夜通し叩かれたりと大変賑やかな場所であったことがわかります。

 その主役は若衆(青年層)でありその予備軍の子供たちでした。

 『富士吉田市史 民俗編』には、道祖神碑が建立される以前から集落では御神木(オシンボク)を立てて道祖神祭をしていたとあり、御神木を立ててドンド焼きを行い、その火が燃えている間にさまざまな催しをするのが道祖神祭礼のポイントであったことがうかがえます。

 道祖神祭礼は各集落の新年会ともなっていて一年の行事を決めたともあり、道祖神祭礼を担った「若衆」(若者組)は、村祭り、芝居、相撲、花火など村の娯楽的行事に深く関わっていたらしいことがわかります。

 「道祖神祭礼執行に際して若者仲間が重要な役割を果た」し、「様々な祭礼や芝居興行の執行主体」であったとあり、小正月の道祖神祭礼だけでなく村の娯楽的要素の濃い諸行事に若者仲間(若者組)が深く関与していた(「執行主体」)ことは、きわめて重要なポイントであると思われます。

 道祖神祭礼の際に集めた多額の「御祝儀」は、道祖神祭礼を含めた村や町の一年間の娯楽的行事を執行し、そして維持していくための重要な資金であったと考えられるでしょう。

 山寺勉さんも『甲斐の石造物探訪』において、寄附金(御祝儀)は、「青年層が自由に行事を企画、実施するために必要な資金源」であったと指摘しています。

 

 続く

    ※写真は笛吹市春日居町桑戸の道祖神

 

〇参考文献

・『甲斐の道祖神考』山寺勉

・『甲斐の石造物探訪』山寺勉

・『富士吉田市史 民俗編 第2巻』(富士吉田市)



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