鮎川俊介の「幕末・明治の日本を歩く」

渡辺崋山や中江兆民を中心に、幕末・明治の日本を旅行記や古写真、研究書などをもとにして歩き、その取材旅行の報告を行います。

甲斐の道祖神と道祖神祭礼 その5

2017-12-21 07:25:10 | Weblog

 

 道祖神祭礼は「青年層独自の祭りとして発祥」したものであり、「仏・神系の支配を排除」し「村役人の支配を排した」祭りであったというのが山寺さんの考えであり、「最も革新的な青年層」の祭りであるゆえに、「村役人が期待する規律ある行動から往々にして脱線」する場合もありました。

 この道祖神祭礼と青年層(若者組)の関係について示唆的であったのは、『富士吉田市史 通史編第2巻 近世』の記述でした。

 ここに出て来るのは嘉永7年(1854年)の大明見(おおあすみ)村の史料ですが、それによると大明見村の若者仲間は男性による年齢集団であり(したがって女性は一人もいない)、男性村人のおよそ40%近くが若者仲間に属していました。

 すべて10代から30代で占められており、年少は12歳の鶴松と百松だけ。

 若者仲間への加入年齢は15歳前後で35歳頃までは若者仲間に加入していたらしい。

 リーダーは「若者頭」。

 婚姻の有無は関係がなく、戸主とか家内部での続柄も関係がない。

 彼ら若者仲間(若者組)の村内での役割はというと、大きく4つの役割が挙げられています。

 ①村の警察的役割

 ②神社などの普請

 ③道祖神祭礼の執行

 ④さまざまな祭礼やそれに伴う芝居や相撲などの興行などの執行

 ④の芝居や相撲などの興行の際には、他村の百姓や若者仲間などが招待されるとともに、彼らから多数の寄付金(御祝儀)が集まりました。

 以上のことから「若者仲間の役割は村社会を維持していくうえで欠くことができない重要なものだった」と結論付けられています。

 しかし「近世の村方文書」において若者仲間は、「様々な事件の当事者あるいは取り締まりの対象として現れることが多」く、それは幕領においても諸藩においても「若者仲間が従来の村の秩序を乱す存在として見られていた」ことを示しています。

 若者仲間は村内男性人口の約4割を占めており、村社会を維持していく上で不可欠の重要な役割をはたしていましたが、たとえば村にとってさまざまな寄付を集めることができた絶好の機会であった芝居興行をめぐっても、村内ではさまざまな意見や対立がありました。

 また若者仲間は婚礼にも介入し、しばしば暴力事件を起こす(婚礼妨害)こともありました。

 天保11年(1840年)の4月(旧暦)、若者仲間の二人(六左衛門・弥五左衛門)は村役人に対して請書を出していますが、それは、産神祭礼・諸祭り・日待などを口実に、芝居・手踊りはもちろん、人が集まるようなことはさせず、村のためになるようにする、というものでした。

 若者仲間は、諸祭礼や行事を口実に、芝居や手踊りを催して人が集まるような企画を立てて執行していたことがわかります。

 「天保の大飢饉」を受けて、それらの催しを自粛することを村役人に対して約束したことになります。

 ここで注目したいのは、「若者仲間にも、村社会のめざすべきあり方があったのではなかろうか」「暴力・喧嘩・雑言などは、事件として非があることは確かであろう。しかし、若者仲間にとっても、正当とする意識があり、それに基づく秩序があったことを忘れてはならない」という指摘。

 村秩序を何よりも優先する村役人などの村の支配層と、場合によっては従来の村の秩序を乱すような行動を見せる若者仲間との世代間のギャップ、そしてあるべき村社会のあり方を巡っての両者の対立が深刻化していったのが幕末期の村の状況であったのではないかと思われてきます。

 天保4年から始まる長期の「天保の大飢饉」は、村内における世代間のギャップ、あるいは村役人と若者組の対立を一艘深刻化させていくものではなかったでしょうか。 

 そして「没落した農民は、村から出ていき、江戸や在郷町などで其日(そのひ)稼ぎの者となったり、無宿人となり村々を徘徊するようになっていった」のです。

 小正月の道祖神祭礼を初めとして村の祭礼などにおいて娯楽的行事や催しを中心的に担った若者仲間(若者組)は、「村役人が期待する規律ある行動から往々にして脱線し」(『甲斐の道祖神考』)、「様々な事件の当事者あるいは取り締りの対象として」近世の村方文書に多く現れる存在(『富士吉田市史』)でした。

 「天保騒動」には15歳から60歳までの男たちが郡内や国中の多くの村や町から多数加わっています。

 これらの男たちの大部分は「若者組」の構成員であったはずであり、また男たちを率いていたリーダー(頭取)は多くが無宿人であったり博徒であったりするわけですが、彼らの多くはもともとは村の「若者組」の構成員であったはず。

 以上のことから、「天保の大飢饉」や「天保騒動」、また幕末維新期の動向を、「若者組」の視点から見ていくことも重要なことではないかと思われます。

 

 続く

  ※写真は山梨市大野公会堂近くの丸石道祖神

 

〇参考文献

・『甲斐の石造物探訪』山寺勉

・『富士吉田市史 通史編 第2巻』(富士吉田市)

・『甲斐の道祖神考』山寺勉



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