鮎川俊介の「幕末・明治の日本を歩く」

渡辺崋山や中江兆民を中心に、幕末・明治の日本を旅行記や古写真、研究書などをもとにして歩き、その取材旅行の報告を行います。

2011.12月取材旅行「成田および佐倉」 その10

2011-12-29 07:14:38 | Weblog
 トーキングギャラリーで、青山さんがまず説明を始めたのは、フェリーチェ・ベアトが幕末に、愛宕山の上から撮影した江戸のパノラマ写真についてでした。

 このベアトの江戸を写したパノラマ写真は、明石書店の『F.ベアト写真集2 外国人が撮った幕末日本』で知っており、幕末の江戸武家地の様子がよくわかるパノラマ写真として、「よくぞこれを撮っておいてくれた」と感謝したくなるような貴重な写真の一つ。

 青山さんは、この写真が写された時期や時間を、写真資料そのものと関連資料から絞り込んでいったのですが、その絞り方が大変興味深いものでした。

 一つの手がかりは、北方写真の、愛宕山西麓を南北に走る西久保通りと佐賀藩鍋島家中屋敷に挟まれた板囲いの空き地。これが文久3年6月3日(旧暦・1863年7月13日)に発生した火災で焼失した範囲と重なることから、板囲いが施されていることや一軒の家の建築が始まっていることも考慮に入れて、火災後しばらく経ってから写されたものと絞り込んでいきます。

 二つ目の手がかりは、東方写真の、真福寺表門付近の陽射しとその影の部分。この角度から、この写真は文久3年か翌4年の立夏あるいは立秋の頃、午前9時半頃と絞り込まれるわけですが、先の一つ目の手がかりと併せ考えると、文久3年の立夏か立秋(1863年8月8日)の頃ということになる。

 三つ目の手がかりは、これは写真からではなく、スイス遣日使節の参事官兼書記官としてアンベールとともに来日したブレンワルドの残した日記。それによるとベアトは文久3年7月4日(1863年8月17日)、オランダ駐日総領事ポルスブルックとともに、横浜から江戸へ向かっており、当時、ベアトが一人で江戸市中を自由に動き回れたとは考えられず、総領事のポルスブルックとともに行動していたであろうことを考えると、この写真は文久3年7月4日のしばらく後に撮影されたと推定できます。

 その他にも、青山さんは、いくつかの手がかりを状況証拠も含めて挙げた上で、それらすべてを総合して、この写真は「1863年8月」の下旬のある晴れた日の朝(午前9時半頃)に、愛宕山上からベアトによって撮影されたものと推定します。

 青山さんが、この写真が写された時期について以上のように絞り込んでいく理由は、写真資料の撮影された日時や場所を詳しく明らかにすることが、その歴史資料としての価値をよりいっそう高めることにつながるからです。

 『F.ベアト幕末日本写真集』(横浜開港資料館)を見てみると、それには江戸城やその御堀(内堀)、愛宕神社の鳥居や境内、芝増上寺、浜御殿、芝高輪の武家屋敷、浅草寺、王子の茶屋なども撮影されていますが、これらは1863年8月17日以後に撮影されたものであるということが、以上のことからわかってきます。

 次に青山さんが説明されたのは、1889年(明治22年)1月に、建築中のニコライ堂の上から撮られた全東京展望写真。

 神田川の昌平河岸には、川舟や荷物の積みおろしのための桟橋が見え、この頃もまだ神田川が水運上の機能を持ち続けていたことがわかります。
 
 関東大震災は、江戸の面影を残した東京の街を大きく変貌させることになりますが、「第一章 広がる風景」は、関東大震災も含めた、それまでの江戸・東京の街並みの変化を写真資料で追ったものであり、「第二章 くらしの風景Ⅰ」は、空襲後の東京やその周辺の景観の変化を、「石井實フォトライブラリー」の写真を中心に追ったもの。

 「第五章 風景を記録する」の「石井實フォトライブラリーとは」によれば、石井實さん(1926~2007)は、小学校・高校・大学の地理教師として、地理教材と自らの地理研究のために、日本各地の風景を撮り続けたという。カメラを車に積み込んで移動することが多く、車の走行距離や行き先などを詳細に手帳に記録しており、また撮影したすべてのフィルムをコンタクトプリントして、スクラップブックに撮影順に貼り付けて整理し、それにフィルム番号や撮影日、撮影地のほか、撮影のテーマや手描きの地図なども記していたとのこと。

 高度経済成長期に写された白黒写真が多く、全国各地にわたっていることや、その膨大な枚数や、また記録写真としての意味合いからも、宮本常一さんの残した写真に共通するものを感じました。

 「第六章 変わる風景」は、長崎の風景を、幕末から明治・大正、昭和の原爆被災までを追ったもの。立山や風頭山からの定点写真から、その変遷を見ることができます。この長崎の幕末写真(パノラマ写真も含めて)においても、フェリーチェ・ベアトが貴重な写真を残しています。

 「第七章 くらしの風景Ⅱ」は、「東京の山村 奥多摩」を、石井實さんがおよそ30年にわたって写し続けたもの。過疎化と高齢化が進行する高度経済成長期の山村風景やその変化を、石井實さんは写し続けました。

 最後のコーナーは、「特設コーナー 風景の記録と記憶」ということで、「東日本大震災によせて」とありました。

 もともとは予定されていなかったコーナーでしたが、企画展準備中に東日本大震災があり、人々にとって風景や歴史や文化の持つ意味合いや、復興における写真の持つ意味合いといったものを探るためのものとして、新たに企画展示されたものであるようです。

 そこには石井實さんが写した写真も含めて、震災および津波被害以前の三陸海岸各地の風景写真と、それ以後の風景写真が展示されていました。

 江戸・東京は、関東大震災と空襲、そして戦後の高度経済成長期によって大きな変貌を遂げ、長崎は原爆により大きな変貌を遂げました。地方の農村や山村、漁村は戦後の高度経済成長期に大きく変化し、少子高齢化と過疎化が進行しました。戦争や戦後の高度経済成長は、特に地方において大きな津波のようなものであり、否応なく、地方はその津波にのみ込まれていきました。

 東北の三陸地方は、3月11日の巨大地震により、想像を絶する大津波にのみ込まれ、深刻で悲惨な被害を受けましたが、これは戦争(空襲・原爆投下など)や高度経済成長という大きな「津波」に、地方が否応なしにのみ込まれていったのと重なる部分があるのではないか、と展示を見ていきながら思えてきました。

 巨大地震による大津波とそれによって生じた福島第1原発事故による放射能被害を併せて考えた時、原発によって造られた電気によって生まれた「豊かな生活」が、戦争や高度経済成長によって目指された「豊かな日本」と同じく、いかにもろいものの上に成り立ち、多くの犠牲の上に成り立っていたかを、この展示を見て、あらためて感じさせられました。


 続く


○参考文献
・『ヒュースケン日本日記』(岩波文庫)
・『風景の記録─写真資料を考える─』(国立歴史民俗博物館)
・『F.ベアト写真集2』(明石書店)
・『F.ベアト幕末日本写真集』(横浜開港資料館)


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