鮎川俊介の「幕末・明治の日本を歩く」

渡辺崋山や中江兆民を中心に、幕末・明治の日本を旅行記や古写真、研究書などをもとにして歩き、その取材旅行の報告を行います。

2011.12月取材旅行「成田および佐倉」 その11

2011-12-30 06:41:23 | Weblog
 トーキングギャラリーが終わってから、ミュージアムショップでいくつかの買い物をし、国立歴史民俗博物館を出て、近くの休憩所前の広場が見えるところで遅めの昼食。

 この広場のあたり佐倉連隊の兵営があったところであるらしく、近くに「兵営の便所跡」というのがありました。

 昼食後、「椎木門(しいきもん・本瓦葺・二階造り)跡」を通過して、本丸跡へと向かいました。

 「椎木門跡」を通過したところの右手に「佐倉陸軍病院跡」があり、そこには「明治 大正 昭和 平成の 四世に亘る 佐倉醫のこゝろ 茲に遺す 仁の心を腎に」「病院・療養所の変遷」と刻まれた碑が建っていました。

 「病院・療養所の変遷」の年表によると、明治7年(1874年)5月に「東京鎮台佐倉営所病院」が創設され、それは昭和11年(1936年)11月に「佐倉陸軍病院」となり、同20年(1945年)12月に「国立佐倉病院」となっています。同25年(1950年)4月に「国立療養所佐倉病院」となり、その後も若干の変遷を経て、平成16年(2004年)3月に「国立千葉東病院」に組織統合されています。

 「江原台」というところに移転したのが昭和54年(1979年)のことだから、100年余の間、ここに病院・療養所があったことになります。

 右手に「空堀跡」を見て、「二の門(本瓦葺・二階造り)跡」に来ると、その両脇に、「堀田正睦公像」(右側)と「タウンゼント・ハリス像」が立っていました。

 これはもちろん「日米修好通商条約」締結に向けての会見が、両者の間において行われたことを記念したものであるでしょう。

 先ほどの「椎木門跡」の案内板もそうでしたが、この「二の門跡」の案内板にも、かつての門の姿を写した古写真が掲載されています。「椎木門跡」の写真にはありませんでしたが、この「二の門跡」の写真には、「明治初期撮影(撮影─阿部忠忱)」とあり、撮影時期と撮影者の名前が付されています。

 「阿部忠忱(ただのぶ)」という名前は、初めて目にしました。

 この「二の門跡」から「本丸跡」へと向かう道筋の左手に、正岡子規の句碑があり、その案内板の説明によると、子規は、1894年(明治27年)、本所~佐倉間に開通した総武鉄道に初乗りして、佐倉の地を訪れており、その時の模様を当時の新聞『日本』の12月30日号に詳しく載せているとのこと。

 子規は佐倉ゆかりの香取秀真(ほつま)や洋画家の浅井忠とも深いつながりがあり、フランス留学から帰国した浅井忠は近くに住んでいて互いに敬愛した仲であったという。

 句碑には、

 「佐倉  常磐木や 冬されまさる 城の跡」

 とあり、案内板によると、もう一つの句碑が「国鉄佐倉駅前城南橋付近」にあって、それには、

 「霜枯の佐倉見上ぐる野道かな」

 と刻まれているという。

 本所駅から総武鉄道に初乗りした子規は、佐倉駅で下車し、「野道」を歩いて佐倉城址まで歩いたのでしょう。

 田んぼの中を行く「野道」の周囲も、佐倉城があった丘陵も、冬枯れの景色であり、「佐倉見上ぐる」とは、佐倉城や佐倉城下がある丘陵を、駅前から続く「野道」から遠く見上げたものと言えます。

 案内板には「ここから…国鉄佐倉駅まで 約2km 徒歩 約30分」とあるから、子規は、佐倉駅から本丸跡までの「野道」をおよそ30分ほど歩いたことになる。

 子規は、意外とその遠さを感じながら歩いたはずだと思われます。

 両側に紅葉の名残を観ながら歩いて、「一の門(本瓦葺・二階建て)跡」を通過したのが14:20。

 この「一の門」の案内板にも「阿部忠忱」が明治初期に写した「一の門」の写真が掲載されており、その古写真には、「一の門」下に立つ7人ほどの人物が写っており、そのうち4人は丸い番傘(日傘)のようなものを差しています。

 案内板によると、門内は本丸であり、天守閣・銅櫓・角櫓(すみやぐら)・御殿が置かれ、御殿の前庭には金粉をすりこんだ栗石が敷かれていたと伝えられているとのこと。

 さっそく、その本丸内へと入ってみました。


 続く


○参考文献
・『ヒュースケン日本日記』(岩波文庫)
・『風景の記録─写真資料を考える─』(国立歴史民俗博物館振興会)


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1 コメント

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いじめ反対 (善野)
2011-12-30 06:51:21
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連合・サービス連合傘下の労働組合

関汽交通社社員さんへ

いじめ行為、嫌がらせ行為やめてください

全国で有名になるまでがんばるぞ!

関西汽船南港乗船券販売所・関汽交通社

2004年に自殺した熊本県警巡査・山田真徳さん(当時22歳)の両親が、自殺は県警でのいじめが原因として県に約6960万円の損害賠償を求めた訴訟で、県は28日、いじめ行為を認定し200万円の支払いを被告側に命じた1審判決を支持した福岡高裁判決について、上告を断念した。


 高裁判決によると、山田さんは02年1月に県警の剣道特練部の部員となり、04年5月に機動隊の寮で自殺した。県側は「いじめはなかった」と主張したが、判決は「山田さんを長期間孤立させていたことは、部関係者らの証言で明らか」などとして、いじめを認定した。

関西汽船南港乗船券販売所・関汽交通社

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