鮎川俊介の「幕末・明治の日本を歩く」

渡辺崋山や中江兆民を中心に、幕末・明治の日本を旅行記や古写真、研究書などをもとにして歩き、その取材旅行の報告を行います。

鈴木かほるさんの『坂本龍馬の妻お龍』について その1

2008-06-02 05:56:50 | Weblog
 坂本龍馬の妻お龍の写真については、2枚の写真が知られています。

 手元に『坂本龍馬写真集』(宮地佐一郎/新人物往来社)という本がありますが、そのP240にまず1枚、そしてP248にもう1枚が掲載されています。

 前者は若い時のお龍の写真とされているもので、「京都井口家アルバムより発見された。お龍の後の夫、西村松兵衛の末裔西村兵造氏の証言によりお龍と推定される写真である」とあり、後者はお龍の晩年の写真で、「京都の勤王医師楢崎将作の長女で、龍馬と結ばれて数奇の生涯を送った女性。龍馬は『まことに妙な女、おもしろき女』と云っている。佐々木高行は『有名なる美人の事なれ共、賢夫人や否は知らず』と評している」とコメントが付されています。両方の写真を見てみても、かなりの美人であったであろうことは疑いがない。

 私の歴史小説である『波濤の果て』でも、このお龍が登場する一場面があります。長崎に留学してフランス語を学んでいた若き日の中江兆民(篤助)が、海援隊の本部のあった長崎本博多町の小曽根家の別邸(裏屋敷)で、部屋に入ってきたお龍を垣間見るシーン(『波濤の果て 中江兆民の長崎』P203~206)。


 正午を知らせる鐘の音が、遠くから聞こえてきた。篤助が、席を立って暇をしようとしたときである。襖の向こうから、
 「龍馬は、いてはりますか」
 という女の声がした。
 「おう、ここにおるがよ」
 龍馬が答えると、襖が開いた。
 「今日は、外で一緒にお昼をとる約束どしたなあ」
 篤助は振り向いて女の顔を見た。おそらく龍馬の妻のお龍であろう。
 噂通りの美人であった。瓜実顔で、鼻も口も小振りであるが、やや離れた両目がきらきらと輝いている。眉は薄いが、くっきりとしている。外に出るためか白粉(おしろい)をし、髪には鮮やかな紅色の簪(かんざし)を刺している。
 (中略)
 大柄な龍馬に対して、女の方は小柄であった。背は龍馬の肩ほどもない。
 (中略)
 篤助は帰ることも忘れて、社中の者たちの話を黙って聞いていた。まだお龍の顔を見たときの余韻が残ったままだった。


 以上、抜粋ですが、兆民が果たして実際にお龍と会ったかどうかはわからない。長崎で坂本龍馬と会ったことがあることは確実です。その妻お龍は、当時本博多町の小曽根家に滞在していたから、会った可能性は高い。会っていたとしても、お龍から見れば、龍馬のもとに出入りする多数の書生の一人に過ぎなかったわけで、記憶に留めるほどの者ではなかったと思われます。

 私の小説では、若き日の兆民は、お龍を見てその美貌に強い印象を受けたことになっています。

 といっても、以後、お龍は登場しませんが……。

 この場面を書く時に、私の頭にあったのが、「若き日のお龍」の写真でした。小柄で、顔の造りも小振り(瓜実顔)。眉毛が薄く、両目がやや離れている。紅色かどうかはわかりませんが、簪を刺しています。背は低いけれども、背筋はピンと伸びています。パッと見て受ける印象は、やや勝気な感じ。

 もう1枚、念頭にあったのは、お龍の末妹きみ(起美・君枝)の写真。この「きみ」の写真は『坂本龍馬写真集』のP247に掲載されています。「千屋君枝写真(高知中城家蔵)」というのがそれ。明治9年(1876年)に東京で写したもので、4人(きみの娘である赤ん坊の初子を含む)写っているその写真の一番右側の女性が「きみ」になる。

 お龍は、鈴木かほるさんの推定によると天保12年(1841年)生まれ。末妹の「きみ」はお龍より11歳年下。1852年生まれだとすると、年号で言えば嘉永5年生まれということになります。ということは「きみ」が24歳の時の写真になる。写真から受ける感じは、おとなしく清楚な感じ。やはり美人で、古風ではなく現代的な感じがする。

 私の小説では、海援隊のメンバーの一人である菅野覚兵衛(本名千屋寅之助)が、

 「姐さんには、君枝ちう名の妹がいる。これが姐さんに負けず劣らずの別嬪(べっぴん)じゃ。もしかしたら妹の方が勝っちょるかも知れんぞ」

 と評していますが、この菅野覚兵衛と「きみ」が後に結婚することになり、ということで、菅野覚兵衛はお龍にとって義理の弟(妹の夫)、菅野覚兵衛にとっては、お龍は義理の姉(妻の姉)であるということになったのです。

 しかし、この「若き日のお龍」の写真は、鈴木かほるさんによると、どうもお龍の真影であると断定するにはいろいろ疑念があるもののようです。

 鈴木さんがお龍の真影と断定されるのは、「晩年のお龍」の写真1枚。最近、新聞の記事(『毎日新聞』5/16)で、警察庁科学警察研究所が、「若き日のお龍」の写真とされているものと「晩年のお龍」の写真を比較調査して、「別人と示す根拠はない」との結論を出したことを知りましたが、果たして、真偽はいかなるものでしょうか。


 続く


○参考文献
・『市史研究横須賀』第4号(横須賀市)
・『坂本龍馬の妻 お龍』鈴木かほる(新人物往来社)
・『坂本龍馬写真集』宮地佐一郎(新人物往来社)


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5 コメント

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おりょうさんの写真について (森重和雄)
2010-01-25 13:05:58
こんにちは!
時々、ブログを読ませていだいています。
中江兆民のお話は面白かったです。

おりょうさんの写真については下記もぜひお読みくださいませ。

http://yoppa.blog2.fc2.com/blog-entry-590.html
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森重さんへ (鮎川俊介)
2010-01-26 20:00:19
コメントとブログのご紹介、ありがとうございました。お龍さんの若き日を写したとされる例の写真についてはいろいろな考えがあることを知りました。確かな根拠があるわけではありませんが、お龍の晩年の写真、妹の君枝さんの24歳の時の写真、そして鈴木かほるさんの説などを合わせ考えてみると、私はあの写真は若い時のお龍さんのものではないのでは(つまり別人では)と、今のところ判断しています。龍馬にはお龍の魅力がわかっていましたが、多くの人にはそれがわからなかったように思われます。当時の人々の「あるべき」とした女性像とは、かなり離れている、ちょっと前の言葉で言えば「飛んでいる女性」であったのでは。龍馬だからこそ、その魅力に惹かれたのだと思っています。そういう龍馬という類い稀な男に出会って、そして愛されたお龍。そして龍馬が若くして死んでしまったために、その強烈な面影や思い出に生きたお龍は、ある意味では「不幸な女」であったのかもしれません。今後ともよろしくお願いします。
            鮎川俊介
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平井義十郎のご子孫 (森重和雄)
2010-01-27 10:43:40
幕府の語学所学頭・平井義十郎のご子孫は東京におられます。
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何礼之のご子孫 (森重和雄)
2010-03-26 02:24:39
何礼之のご子孫にもようやく今夜お会いしました。

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森重さんへ (鮎川俊介)
2010-03-29 20:06:44
ご連絡、ありがとうございます。兆民が長崎でフランス語を学んだ時の、日本人フランス語教師平井義十郎については、このブログで触れた際、ご子孫の方から封筒が届き、その中に入っていたお手紙で貴重なご指摘を頂き、また貴重な資料のコピーを頂いたことがあります。ブログの内容を一部訂正するとともに、正確で冷静な記述が大事であることを再認識しました。何礼之(がのりゆき)のご子孫に会われたとのこと。何礼之についても、やはり、私の著書『波濤の果て 中江兆民の長崎』などで触れたことがあります。岩倉使節団のメンバーの一人でもあり、兆民(随行の留学生の一人)とは太平洋をアメリカ(サンフランシスコ)まで同船しています。やはり平井義十郎とおなじようにご子孫がちゃんといらっしゃることになり、こういうことを知ると、歴史的人物や出来事が、けして過ぎ去ってしまった遠い昔のことではなく、身近なことのように思われてきます。では、また。
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