鮎川俊介の「幕末・明治の日本を歩く」

渡辺崋山や中江兆民を中心に、幕末・明治の日本を旅行記や古写真、研究書などをもとにして歩き、その取材旅行の報告を行います。

「企画展 渡辺崋山・椿椿山が描く 花・鳥・動物の美」について その1

2013-10-24 05:09:41 | Weblog

 未明に自宅を出発し、厚木ICから東名高速道に乗り、御殿場の先から新東名高速に入りました。

 新東名高速を走るのは2回目。

 それほど混んでおらず、「遠州森町PA」に着いたのが6:12。

 「森」と白く書かれた台の上に乗った、三角形の木枠内に、火消用の小桶が10個積み重ねられているのが印象的でした。

 「森」と言えば、「森の石松」の「森」。秋葉山信仰において、街道の宿場町として栄えたという。

 東京の「秋葉原(あきはばら)」の地名は、火伏せの神さまである「秋葉(あきば)神社」があった原っぱ、つまり「秋葉原(あきばはら)」から来ているというのは有名な話です。

 新東名高速のSAやPAの施設はどれも新しくてきれいですが、この「遠州森町PA」は宿場町を模していて、前に立ち寄った時に印象に残ったところ。

 利用したトイレには、「このトイレの内装材及び園地の樹木支柱の一部に森林整備加速化・林業再生事業により、静岡県産の木材を使用しています」と記された看板が貼られていました。

 「浜松いなさIC」で新東名を早めに下り、浜名湖の北岸を通って豊橋市内経由で田原市域へと入ったのが8:00過ぎ。

 途中で「吉胡貝塚」の案内標示を見掛けたのが気になり、それを探して、「シェルマよしご」(「吉胡貝塚史跡公園」)の駐車場に車を停めたのが8:18でした。

 比較的最近に整備された史跡公園のようであり、案内図には、「吉胡貝塚資料館」、「体験広場」、「19号人骨出土場所」、「貝塚断面展示施設」、「矢崎岩」、「旧矢崎御殿跡の石垣」などの施設等の位置が示されていました。

 開館時間(9:00)前なので資料館はまだ開いておらず、資料館以外の史跡公園内の施設を見て回ることにしました。

 駐車場の左手の農道のような道を少し上がって、資料館の建物の横に出てみると、目の前に芝生広場が広がり、その向こうの少し下から整然と区画された田んぼの広がりと、その先の丘陵の手前に、人家などが密集する住宅地を見ることができました。

 「ああ、あの水田地帯のある平地はかつては海だったんだ」

 とすぐに、その風景をみて察することができました。

 手前のこの「史跡公園」のある丘陵は、縄文時代においては海に面した丘陵(高台)であり、ここに人々は住宅(竪穴住居)を建てて生活していたのです。

 前には魚貝類がいる海が広がり、背後には鹿や猪などの動物がいる山林が広がっていたということになります。

 縄文時代の人々が住みつくには絶好の場所であると、そこからの眺めを見渡しただけで判断がつきました。

 気になっていた「矢崎岩」というのは、芝生広場を少し下っていったところの農道のような道路の田んぼ側にありました。

 どういういわれのある岩かは分かりませんが、もしかしたらかつてこの田んぼのある平地が海であった頃、波がこの岩の下部のところに押し寄せていたのかも知れない、と思いました。

 その農道のところから芝生広場の上へとまっすぐに延びている遊歩道を見上げると、その中程左手に「史跡吉胡貝塚」と刻まれた石柱が立っていました。

 この「吉胡(よしご)貝塚」という史跡の名前は、中学校か高校の教科書に載っていた記憶があり、縄文時代の貝塚の中でも有名なものとして記憶に刻まれていました。

 実際その場所を自分の目で確認してみると、「なるほど」と思わせる、その集落や貝塚の立地条件を備えていました。

 

 続く

 

〇参考文献

・展覧会図録『渡辺崋山・椿椿山が描く 花・鳥・動物の美』(田原市博物館)



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