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鮎川俊介の「幕末・明治の日本を歩く」

渡辺崋山や中江兆民を中心に、幕末・明治の日本を旅行記や古写真、研究書などをもとにして歩き、その取材旅行の報告を行います。

2012.12月取材旅行「桐生~境橋~足利」 その1 

2012-12-13 05:14:47 | Weblog
 JR両毛線桐生駅近くの駐車場に到着したのは7:50頃。空は薄青く澄み渡っています。

 いつものように「新川公園」を右手に見て通りを進み、いつもは途中で左折するところを、そうはせずに通りをそのまま東方向へと進んで行きました。

 というのも「新川公園」という名前からわかるように、この近辺にはかつて「新川」という川が流れていたものの、現在はその川の姿はどこにも見当たらず、しかし通りを歩き進んで行くと、どうもこの通りの右側に沿って「新川」という川が流れていたようだと思われてきたからです。

 「新川公園」の北東角に、通りを潜って東側へと出るトンネルがあるのですが、川はその橋の下を流れていたように思われました。

 少し通りを歩いてから、そのトンネルを振り返ってみると、舗装された遊歩道のようなものが「新川公園」からそのトンネルを潜って続いているのですが、振り返った私から見て右側の通りと左側の学校の建物との間には、かつて水路があったことを思わせるくぼんだ地形が残っていました。

 行く手(つまり東方向)を眺めても、右下の駐車場は私が歩いている通りよりも下にあり、それはさらに右側に建っている学校関係の建物に沿って、そしてまた私の歩いている通りに沿って、長々と延びる長方形となって東方向へと続いています。

 これはかつての「新川」の流れを埋め立てて出来た造成地であると判断されました。

 では、この「新川」の流れの跡地であると思われるこの「くぼみ」はどこまで続いていて、それは最終的にどうなっているのか、という興味・関心が、俄然わき起こりました。

 ということでさらに歩いていくと、右手にスカート姿の女の子が座っている銅像があって、そのほん先に、「姉妹都市提携20周年記念」と刻まれた金属製銘板があり、それには「コロンバス市」のマークと、「桐生市」のマークも並んで刻まれていました。

 私が「新川公園」を右手に見て、そのままずっと東方向へと歩いて来た通りは、「コロンバス通り」と呼びますが、その「コロンバス」とは、桐生市が姉妹都市提携をしている「コロンバス市」に由来した名前であったのです。

 さらにそこから先へと進んでいきたかったのですが、そこは「本町通り」とちょうど交差するところであり、「本町4丁目」交差点から右折して桐生川方面へと向かうことを予定していたため、東方向へと舗装された遊歩道のようになって延びている「新川」のかつての流れ(跡地)へとそこから階段を下りることはせずに、「本町通り」へと左折することにしました(8:03)。

 この「新川」の流れと思われる跡地には、あとで、桐生川の堤防を歩いている時に出合うことになりました。つまりこの「新川」は、桐生川に注ぎ込んでいたのです。ではどこから流れてきたのか、と言えば、おそらくそれは渡良瀬川から分流されて流れてきたものと推測されました。

 「新川」という以上は、ずっと昔からあった川ではなくて、渡良瀬川から取水する形で新しく造られた用水路のようなものであったと考えられます。

 それは灌漑用水路としての機能ばかりでなく、桐生において水力八丁式撚糸機が発明され普及するようになると、その水車を回す動力にも応用される用水路であったと考えられます。

 つまり「新川」や、あるいはさらにそこから分流された用水路には、かつて八丁式撚糸機を動かすための水車が、いくつも並んで回っていた可能性が出てくるのです。

 そしその「新川」や用水路の流れは、最終的に桐生の町の東方を流れる桐生川に合流していたと考えることができます。

 しかしながら、その「新川」はほとんど埋め立てられ、また分流されていたかも知れない用水路も埋め立てられ、かつての用水路が至るところに流れており、そしてそこに水車がいくつも回っていたような風景(天保2年の渡辺崋山が目の当りにしたような風景)は、現在の市街化された桐生においては、どこにも見ることはできません。

 左折して「本町通り」を北方向へと少し進むと、左手に「浄運寺」の立派な山門が見えてきました。

 「産業観光まちづくり大賞金賞 ようこそ桐生市へ!」と染められた横断幕が掛かるJR両毛線の高架を潜った左手にあるのが「横浜銀行」。

 この群馬県という北関東の県の桐生という都市に「横浜銀行」があるというのは、絹織物や養蚕関係で、桐生が外国との交易港である横浜と深いつながりを持っていたことを示しています。

 「本町4丁目」の交差点に出たのが8:12。

 なぜ、この「本町4丁目」交差点を目指したのかと言えば、本町四丁目の十字路は桐生新町創設のころからあった辻子(ずし)で、東西に抜けるのはこの道のほかにはなかった、という記述が、服部修さんの『桐生百景』にあったから。

 現在は、桐生市街を東西に抜ける通りはいくつもありますが、かつては東西に抜ける通りは、この「本町4丁目」交差点で「本町通り」と交差する通りの他にはなかったということであり、崋山一行が足利へと向かった道は、岩本家を出発した場合、この四丁目まで南下したところでぶつかり、そしてそこから東方向へと延びる通りであったと考えられるのです。

 ということで、コロンバス通りから左折して「本町通り」を北進してきた私としては、その「本町4丁目」交差点でぶつかった通りを、東方向へと右折することにしました。

 そしてまず目指したのは、桐生川の土手でした。


 続く


○参考文献
・『桐生百景』(服部修)
・『渡辺崋山集 第2巻』(日本図書センター)


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