鮎川俊介の「幕末・明治の日本を歩く」

渡辺崋山や中江兆民を中心に、幕末・明治の日本を旅行記や古写真、研究書などをもとにして歩き、その取材旅行の報告を行います。

2010年・夏の山行─竹久夢二の登った須走口登山道 その最終回

2010-08-16 07:15:47 | Weblog
 竹久夢二(茂次郎)は、明治17年(1884年)9月16日に、岡山県邑久郡本庄村佐井田西谷に生まれました。邑久高等小学校の時に、担任であった服部杢三郎により絵の才能を見出されたようだ。

親の反対を押し切って、明治34年(1901年)の夏に画家となるために上京。この上京してからの5年間、夢二は、新聞配達や牛乳配達、また人力車の車夫などをするなど相当の苦学をしたようです。苦学をしながら早稲田実業学校に入り、明治38年には早稲田実業学校の本科3年を卒業し、専攻科に進んでいます(後、中退)。

 注目すべきは、この苦学時代に、夢二が「平民社」に出入りしていること。この「平民新聞」は、明治36年(1903年)11月15日に、幸徳秋水・堺利彦らによって創刊されています。

 夢二の社会主義への接近は、とくに安部磯雄の影響が大きかったようです。

 明治37年頃、夢二は岡栄太郎と、東京雑司が谷の鬼子母神脇の農家の離れで自炊生活を送っていましたが、そこに荒畑寒村が転がり込んでいます。

 その寒村によれば、夢二は藤島武二の白馬会研究所にもっぱら通い、絵の勉強をしていたという。時期としては明治37年から翌38年の春頃までの間であったらしい。

 夢二は「平民社」の同人となっており、『平民新聞』に絵や歌を掲載しています。夢二の画才を初めて認めてくれたのは平民社であったのです。

 この夢二が岸たまきと出会ったのは、明治39年(1906年)11月のこと。

 岸たまきは、元加賀藩士岸六太郎(富山県治安裁判所判事)の次女で、生まれも育ちも金沢でした。一度結婚しており、その相手は日本画家であり、富山県高岡市の高岡工芸学校の教師をしていました。二人の子どもが生まれていましたが、その夫がチフスで急死。

 たまきの兄他丑(たちゅう)が陸軍幼年学校の教官を退官し、早稲田鶴巻町に「つるや画房」を開くことになり、上京したたまきはその店番をするようになったのです。それがその年の11月1日のこと。

 その「つるや」開店5日目に、長髪でぶらっと現れた青年が夢二でした。

 夢二は、店番をしていた、目が大きく、鼻筋が通った、まるで絵のように美しいたまきに魅せられ、やがて明治40年(1907年)1月に、たまきの兄他丑より結婚の許しを得て、神楽坂の横町である牛込区宮比町に一緒に住むようになり、同年9月16日に婚姻届を提出。明治41年(1908年)には長男虹之助が生まれています。

 しかし、たまきは家事も育児も十分に出来ず、夢二の父菊蔵をはじめとして竹久一家のたまきに対する印象もよくなかったようです。たまきの強い性格が、夢二と衝突することも多かったようだ。

 明治42年(1909年)の5月3日に、二人は協議離婚をしています。

 しかし、これが二人の間の不思議なところで、協議離婚してからも二人の関係は続いていきます。

 明治42年(1909年)7月、御殿場に避暑生活を送っていた夢二は、「富士山頂讃美歌礼拝」(「全国クリスチャン雲上礼拝」)に参加するために、御殿場口登山道を利用して初めて富士登山を行いました。

 その後、たまきを御殿場に誘った夢二は、今度はたまきとともに富士登山を決行しました。それが同年の8月15日のこと。したがって夢二にとっては2度目の富士登山であり、たまきにとっては初めての富士登山ということになる。もっとも須走口からの登山は夢二も初めてでした。

 同年12月15日、夢二は最初の画集である『夢二画集 春の巻』を洛陽堂から刊行しますが、その洛陽堂の主人河本亀之助は、『平民新聞』の発行を手掛けた人でもありました。

 この画集の扉裏の献辞には、「この集を 別れたる眼の大きな人に送る」とありましたが、この「別れたる眼の大きな人」とは、もちんたまきのことでした。

 いわゆる「大逆事件」が勃発するのは、その翌年の明治43年(1910年)5月のことでした。幸徳秋水が湯河原温泉で逮捕されたのが6月1日。関係者が次々と逮捕されて、第一回公判が行われるのが12月10日。そして翌44年1月18日には判決が出て、それから6日目の24日に幸徳秋水ら11名、25日に管野スガ、合わせて12名に死刑執行がなされます。
 
 夢二は、明治40年の4月に読売新聞社に入社していましたが、平民社に関係していたことで、官憲から睨まれる存在であったようだ。

 第一回公判の時(1月18日)には、夢二が行くところには「犬」がついて歩いてきました。「スリのよふな奴がついてくる」と、夢二は日記に記しています。翌19日にも「今日も刑事が外に立ってゐる」と記しています。

 それ以前にも、留守に巡査が来たり、「高等刑事と称する男二人」がやって来て応対をしたりしているし、また一度は検挙されて取り調べを受けたこともあるらしい。

 神近市子によれば、処刑が報道された時、夢二は「大変興奮していて」、神近に対して、「十二人の中には秋水をはじめ数人旧知の人がいること」を話しています。また「ぼくは『平民新聞』に出入りして、いつもデモなんかには出ていたんだョ」とも話し、そして、神近に対して、「今夜は、皆でお通夜をしようよ。線香と蝋燭を買って来ておくれ」と頼んだという。

 この夜の通夜に同席している恩地孝四郎によれば、「夢二の画集が数版を重ねた後までも、その画室の外には私服の刑事が立っていた」という。

 「大逆事件」の何らかの関係者に対する執拗な警察の監視は、夢二に対してもかなり長い間行われたと思われますが、それは、夢二とたまきが協議離婚した後、富士登山を決行した明治42年(1909年)の翌年5月以後のことでした。

 その明治43年(1910年)の8月、夢二は千葉県銚子市の海鹿(あしか)島に避暑生活を送っていますが、たまきも一緒でした。

 二人の関係は、その後も続いていきますが、大正4年(1915年)の3月に決定的な別れとなり、たまきは富山へと帰っていきます。

 たまきと別れた夢二は、翌日の朝、次男不二彦とともに落合村の家の二階の窓から、西の方の森の上に白くそびえる富士山を眺めています。そして不二彦と次のような会話をしています。

 「あすこへかあちゃんとパパさんとのぼったんだよ」

 「ぼくものぼらなかった?ぼくものぼりたいよ」

 「ぼくはそのときかあちゃんのポンポンにゐたの」

 「そいから出てきて不二山をみたの」

 「ああ だから、ちこは不二彦といふの」
 
 「そいで不二彦って名つけたの」

 「ああ」

 しかし、たまきと夢二の関係はこれで終わりではない。

 夢二は、晩年肺結核となり、信州の富士見高原の療養所で闘病生活を送りますが、昭和9年(1934年)9月1日、息を引き取りました。その夢二の死後半年ほどして、この療養所に一人の女性が現れて、布団の洗濯や縫い物などをしたりしてしばらくを過ごしました。この女性が、実はたまきでした。

 夢二にとって、たまきとの出会いは、あの夢二の描く「女絵」を生み出す決定的な出会いでした。夢二にとってたまきはどういう存在であり、またたまきにとって夢二はどういう存在であったのか。また二人が経験した「大逆事件」による、官憲の執拗な監視生活は、二人にとってどういうものであり、どういう意味合いのものであったのか、「大逆事件」の強い衝撃は夢二の「女絵」とどうつながるのか、といったことなど、夢二もなかなか一筋縄ではいかない人物であることを知りました。


 終わり


○参考文献
・「富士へ」竹久夢二
・『〈評伝〉竹久夢二』三田英彬(芸術新聞社)
・『竹久夢二正伝』岡崎まこと(求龍堂)
・『竹久夢二 夢と郷愁の詩人』秋山清(紀伊国屋書店) 


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