鮎川俊介の「幕末・明治の日本を歩く」

渡辺崋山や中江兆民を中心に、幕末・明治の日本を旅行記や古写真、研究書などをもとにして歩き、その取材旅行の報告を行います。

2010年・夏の山行─竹久夢二の登った須走口登山道 その9

2010-08-15 06:14:48 | Weblog
この御殿場鉄道馬車には、徳富蘇峰も乗ったことがあるということについては、このブログですでに触れたことがあります。

 徳富蘇峰が鉄道馬車に乗ったのは大正2年(1913年)の8月4日。夢二とたまきが乗った時より4年の後のことになる。蘇峰が鉄道馬車に乗った停車場は、御殿場停車場(東海道線の御殿場駅ではなく、駅前の新橋停車場の次の停車場で、御殿場の町の中心にあった)。行き先は篭坂峠乗り換えで山中湖まで。

 蘇峰が御殿場停車場から乗った鉄道馬車は「時間馬車」でしたが、下りの「臨時馬車」も走っており、単線であるものだから、出合った時には、蘇峰の乗った「時間馬車」は回避線のあるところまで引き返さなければなりませんでした。

 おそらく下りの鉄道馬車が坂道を上がって戻るよりも、上りの鉄道馬車が坂道を下る方が容易であったのでしょう。

 上りの鉄道馬車はゆっくりと登っていくから、乗客は勝手に馬車から降りて、付近の野いちごを摘んだり、姫百合や白百合、撫子(なでしこ)の花を手折ったりしたと、蘇峰は書いています。

 夢二は、同乗した外国人が馬車から飛び降りてたくさんのいちごを採ってくると、その束をたまきにプレゼントしたことを記していますが、蘇峰の記述からも馬車鉄道の沿線には野いちご(ヘビいちご)がたくさん生えていたことがわかります。

 乗客は、その野いちごや咲いている花々を、馬車から飛び降りて採ったり摘んだりしたのです。

 登山の途中、疲れたたまきは「ストロベリーを食べる」と言っては草原に寝転びましたが、そのストロベリーは、行きの鉄道馬車から飛び降りて採ったものであるかも知れない。

 山中湖まで行った蘇峰は、その日のうちに引き返し、須走停車場で下車してそこで休憩をとりました。そしてふたたび鉄道馬車に乗り込もうとしたのですが、その時のことについて、蘇峰は次のように記しています。

 「即今道者雑沓、馬車に乗るの難(かた)きは、東京に於ける割引電車に乗るよりも難し。実巌和尚の如きは、殆んと車外に立ちつくめにてありき。」

 この「実巌和尚」というのは、蘇峰が滞在していた青龍寺の住職で、蘇峰と山中湖まで同行したのはこの実巌和尚と檀家総代でした。

 「道者」というのは富士講の信者のこと。須走口登山道を利用して須走まで下山し、そこから鉄道馬車に乗り込むたくさんの富士講の人々で、須走停車場から馬車鉄道に乗り込むのは東京の割引電車に乗り込むよりたいへんだった、と蘇峰は記しているのです。

 その状況は、4年前の夢二とたまきの場合も同様であったでしょう。

 夢二はその混雑について記していませんが、同乗した外国人が、自分の荷物を除けてたまきのために席を設けてくれた、ということは、やはり鉄道馬車の車内は、それなりに混雑していたものと思われます。その乗客の多くは、須走口登山道を利用して富士山から下山し、東海道線の御殿場駅に向かおうとする富士講の人々ではなかったか。

 蘇峰は、篭坂峠から乗った鉄道馬車は、あたかも義経がひよどり越えをするような威勢で下っていったと記しています。須走からは坂はそれほどの下り坂ではなくなり、ゆるやかな斜面を蛇行しながら下っていったものの、上りの時と較べれば、馬車は速いスピードで下っていくことができたでしょう。

 夢二が記すように、「われ等の馬車は、いと快く高原の上を走って」いったのです。


 
 続く(次回が最終回です)


○参考文献
・「富士へ」竹久夢二
・「蘇峰が見た小山・御殿場の風景」松元宏(『小山町の歴史 第4巻』小山町)
・『ごてんばの古道』


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