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少々疲れましたが、密度の濃い充実した取材旅行でした。一人での取材旅行は久しぶり。妻の理解を得て、愛車キューブを駆って往復500キロ。
前回は、幕末の土佐で起きた事件とそれに関わった一人の青年「大石団蔵」のことに触れました。しかし、まことに勝手ながら土佐のことはしばらく置いといて、今回の取材旅行のことについて何回かにわけて報告します。
幕末の歴史を探(さぐ)るということで、かなりマニアックなところもありますが、幕末に興味・関心を持ち、旅が好きな方の何らかの参考になれば、嬉しいです。
今回の取材旅行の目的地は、西伊豆の戸田(へだ)と、南伊豆の下田、中伊豆の韮山(にらやま)の三ケ所。
戸田は、ロシア軍艦ディアナ号の乗組員が、日本人に本格的な洋式帆船の建造を指導したところ。
下田は、アメリカのペリー(1794~1858)やハリス(1804~1878)、ロシアのプチャーチン(1803~1883)らと、幕府側代表との間で外交交渉が展開されたところ。
韮山は、代官江川太郎左衛門英竜(ひでたつ・1801~1855)の屋敷や反射炉があるところ。
今まで親しい友人や仲間たちと「研修旅行」という名目で、どれも何回か訪れたことのあるところですが、歴史小説を書くための取材を目的に行くのは今回が初めてでした。
そのための準備は以前から始めていたので、かなり絞り込んだ上で出かけました。
さて、ちょっと前置きが長くなりました。
二十二日の早朝六時過ぎに我が家を出発して、東名厚木IC→沼津IC→修善寺経由で西海岸戸田についたのは、午前十一時少し前。
浜辺の駐車場に車を停めて、まず向かったのは日露交渉が行われた大行寺(だいぎょうじ)。
大川を渡り、右に折れて間もなく大行寺に着きます。
ここで幕末における最も優秀な高級官僚(人格的にも極めてすぐれていた)であった勘定奉行川路聖謨(かわじとしあきら・1801~1868)とロシアのアジア艦隊司令長官であるプチャーチン(1803~1883)との会談(ロシア軍艦ディアナ号が津波の際の損傷がもとで沈没してしまったため、ロシアに帰るために建造中の西洋式帆船に関する内容や、領事駐在規定の件などが話し合われるか)が行われました。安政二年(1855年)の二月二十四日のことです。
裏山の墓地に登ると、寺の屋根越しに大川と戸田の町並み。右手に岬(御浜岬)が伸びている美しい港。港の左奥が造船場のあった牛ヶ洞(うしがほら)のあたりになります。プチャーチンや川路も、ここに登って港や集落の様子を見下ろしたかもしれません。
戻る途中、大川に架かる橋(大川橋)から河口を望むと、港の入り江を隔てた向こう正面に御浜岬と赤い鳥居が見えます。鳥居の向こうにあるのは諸口(もろくち)神社になります。湾口は狭くまるで湖のよう。空気が澄んでいれば、その湾口の向こうに富士の勇姿がくっきりと見えるそうですが、残念ながらこの日は見えず。
次に向かったのは町の南側、小高い山のふもとにある蓮華寺。
この寺の手前右手にあるなまこ壁の古い家が勝呂(すぐろ)家の屋敷。
ここは造船御用掛(ごようかかり)の一人で船名主でもあった勝呂弥三兵衛(やさべえ・1821~1889)の屋敷で、ここに仮奉行所が置かれ、幕府の役人や韮山代官の役人たちが多数集まって会議を開いたところ。
この蓮華寺や勝呂邸は、牛ヶ洞の造船場からさして離れてはいない。
その蓮華寺の手前の道を左に行き、すぐに右に折れると宝泉寺。ここはプチャーチン提督と士官たちの宿舎となった所になります。後に(明治二十年〈1887年〉五月)に、プチャーチンの娘でロシア皇后付女官のオリガ・プチャーチンが、父プチャーチンの宿舎であったこの寺とヘダ号建造の跡地を訪問したとのこと。
宝泉寺のすぐ西隣りが本善寺。ここには下士官たちが宿泊し、他の多数のロシア兵たちは、この寺と宝泉寺の間の畑に新築された長屋四棟(むね)に宿泊していたそうです。
ようするにこのあたりには、ディアナ号の乗員であるロシア人たちがうようよ姿を見せていたことになります。韮山代官である江川太郎左衛門英竜もここに姿を現わしたはず。
そのあたりの雰囲気を(想像力を働かせて)味わって、次に向かったのは戸田小学校に隣接している沼津市立戸田図書館。
ここでは戸田関係の歴史的資料は鍵のかかったガラス戸のある棚に並べられており、受付の方にお願いするとすぐに開けてくれました。
その中の、『写真と文献で見る勝呂弥三兵衛と戸田村』勝呂安、『戸田村の年表』斎藤栄一編、『郷土のあゆみ』戸田村教育委員会、『伊豆戸田村でのロシア船製造見学記』(佐賀県から入手したもの)などに目を通し、興味を引いたところを持参の取材ノートに書き写しました。
その作業に思いのほか時間がかかり、その他の参考図書は書名と執筆者の名前を書き留めるだけにしました。
最後に『郷土資料』(関係資料のコピーや関連の新聞記事をファイルにまとめたもの)の一巻目をざっと目を通してみると、中にやや薄い黄色の便箋(びんせん)が一枚綴(と)じ込んであり、目を通すとなんと吉村昭さんの手紙でした。
吉村さんについては、すでに(八月十二日)触れていますが、その吉村さんの手紙を生で見て、胸がじんと熱くなりました。
時間が迫っていたので、その便箋の内容と吉村さんが戸田図書館に送った資料のコピーを詳しく見ることができないまま、後ろ髪を引かれる思いで、午後四時に戸田図書館を出て車に乗り、下田に向かいました。
土肥→天城街道→下佐ヶ野→谷津→白浜→柿崎経由で下田市街に入り、道に迷いに迷って(下田市街の通りの多くはとても狭いのです)何人かの地元の方に尋ねて、ようやく宿舎である「ホテル・ウラガ」に着いたのは薄暗になった午後七時過ぎ。
夕食を摂ろうと、外へ出たものの手ごろな店が見つからず、「アオキ」というスーパーで半額セールのお弁当など、それに翌日の朝食を買い、ホテルに向かいました。
途中、村上書店という本屋があり、そこの郷土本コーナーに置いてあった本のうち、『ロシアから来た黒船』植木静山(扶桑社)、『下田の歴史と史跡』(肥田喜左衛門(下田開港博物館)、『東海道と脇街道』小杉達(静岡出版社)の三冊を購入。
『駿河湾に沈んだディアナ号』奈木盛雄(元就出版社)は、ディアナ号が沼津の宮島と戸田との中間沖合いで沈んだことを検証する力作でしたが、予算の関係で購入を断念。また機会があれば手に入れたいと思っています。
ホテルで夕食を摂り、風呂に入って、翌日早朝に寺巡りをするために早々と就寝しました。
なぜ、寺巡りなのか。
戸田の見学先でおおよその見当がついたかも知れませんが、それは、明日、説明しましょう。
その見学が、今回の私の取材旅行の一番のポイントでした。
前回は、幕末の土佐で起きた事件とそれに関わった一人の青年「大石団蔵」のことに触れました。しかし、まことに勝手ながら土佐のことはしばらく置いといて、今回の取材旅行のことについて何回かにわけて報告します。
幕末の歴史を探(さぐ)るということで、かなりマニアックなところもありますが、幕末に興味・関心を持ち、旅が好きな方の何らかの参考になれば、嬉しいです。
今回の取材旅行の目的地は、西伊豆の戸田(へだ)と、南伊豆の下田、中伊豆の韮山(にらやま)の三ケ所。
戸田は、ロシア軍艦ディアナ号の乗組員が、日本人に本格的な洋式帆船の建造を指導したところ。
下田は、アメリカのペリー(1794~1858)やハリス(1804~1878)、ロシアのプチャーチン(1803~1883)らと、幕府側代表との間で外交交渉が展開されたところ。
韮山は、代官江川太郎左衛門英竜(ひでたつ・1801~1855)の屋敷や反射炉があるところ。
今まで親しい友人や仲間たちと「研修旅行」という名目で、どれも何回か訪れたことのあるところですが、歴史小説を書くための取材を目的に行くのは今回が初めてでした。
そのための準備は以前から始めていたので、かなり絞り込んだ上で出かけました。
さて、ちょっと前置きが長くなりました。
二十二日の早朝六時過ぎに我が家を出発して、東名厚木IC→沼津IC→修善寺経由で西海岸戸田についたのは、午前十一時少し前。
浜辺の駐車場に車を停めて、まず向かったのは日露交渉が行われた大行寺(だいぎょうじ)。
大川を渡り、右に折れて間もなく大行寺に着きます。
ここで幕末における最も優秀な高級官僚(人格的にも極めてすぐれていた)であった勘定奉行川路聖謨(かわじとしあきら・1801~1868)とロシアのアジア艦隊司令長官であるプチャーチン(1803~1883)との会談(ロシア軍艦ディアナ号が津波の際の損傷がもとで沈没してしまったため、ロシアに帰るために建造中の西洋式帆船に関する内容や、領事駐在規定の件などが話し合われるか)が行われました。安政二年(1855年)の二月二十四日のことです。
裏山の墓地に登ると、寺の屋根越しに大川と戸田の町並み。右手に岬(御浜岬)が伸びている美しい港。港の左奥が造船場のあった牛ヶ洞(うしがほら)のあたりになります。プチャーチンや川路も、ここに登って港や集落の様子を見下ろしたかもしれません。
戻る途中、大川に架かる橋(大川橋)から河口を望むと、港の入り江を隔てた向こう正面に御浜岬と赤い鳥居が見えます。鳥居の向こうにあるのは諸口(もろくち)神社になります。湾口は狭くまるで湖のよう。空気が澄んでいれば、その湾口の向こうに富士の勇姿がくっきりと見えるそうですが、残念ながらこの日は見えず。
次に向かったのは町の南側、小高い山のふもとにある蓮華寺。
この寺の手前右手にあるなまこ壁の古い家が勝呂(すぐろ)家の屋敷。
ここは造船御用掛(ごようかかり)の一人で船名主でもあった勝呂弥三兵衛(やさべえ・1821~1889)の屋敷で、ここに仮奉行所が置かれ、幕府の役人や韮山代官の役人たちが多数集まって会議を開いたところ。
この蓮華寺や勝呂邸は、牛ヶ洞の造船場からさして離れてはいない。
その蓮華寺の手前の道を左に行き、すぐに右に折れると宝泉寺。ここはプチャーチン提督と士官たちの宿舎となった所になります。後に(明治二十年〈1887年〉五月)に、プチャーチンの娘でロシア皇后付女官のオリガ・プチャーチンが、父プチャーチンの宿舎であったこの寺とヘダ号建造の跡地を訪問したとのこと。
宝泉寺のすぐ西隣りが本善寺。ここには下士官たちが宿泊し、他の多数のロシア兵たちは、この寺と宝泉寺の間の畑に新築された長屋四棟(むね)に宿泊していたそうです。
ようするにこのあたりには、ディアナ号の乗員であるロシア人たちがうようよ姿を見せていたことになります。韮山代官である江川太郎左衛門英竜もここに姿を現わしたはず。
そのあたりの雰囲気を(想像力を働かせて)味わって、次に向かったのは戸田小学校に隣接している沼津市立戸田図書館。
ここでは戸田関係の歴史的資料は鍵のかかったガラス戸のある棚に並べられており、受付の方にお願いするとすぐに開けてくれました。
その中の、『写真と文献で見る勝呂弥三兵衛と戸田村』勝呂安、『戸田村の年表』斎藤栄一編、『郷土のあゆみ』戸田村教育委員会、『伊豆戸田村でのロシア船製造見学記』(佐賀県から入手したもの)などに目を通し、興味を引いたところを持参の取材ノートに書き写しました。
その作業に思いのほか時間がかかり、その他の参考図書は書名と執筆者の名前を書き留めるだけにしました。
最後に『郷土資料』(関係資料のコピーや関連の新聞記事をファイルにまとめたもの)の一巻目をざっと目を通してみると、中にやや薄い黄色の便箋(びんせん)が一枚綴(と)じ込んであり、目を通すとなんと吉村昭さんの手紙でした。
吉村さんについては、すでに(八月十二日)触れていますが、その吉村さんの手紙を生で見て、胸がじんと熱くなりました。
時間が迫っていたので、その便箋の内容と吉村さんが戸田図書館に送った資料のコピーを詳しく見ることができないまま、後ろ髪を引かれる思いで、午後四時に戸田図書館を出て車に乗り、下田に向かいました。
土肥→天城街道→下佐ヶ野→谷津→白浜→柿崎経由で下田市街に入り、道に迷いに迷って(下田市街の通りの多くはとても狭いのです)何人かの地元の方に尋ねて、ようやく宿舎である「ホテル・ウラガ」に着いたのは薄暗になった午後七時過ぎ。
夕食を摂ろうと、外へ出たものの手ごろな店が見つからず、「アオキ」というスーパーで半額セールのお弁当など、それに翌日の朝食を買い、ホテルに向かいました。
途中、村上書店という本屋があり、そこの郷土本コーナーに置いてあった本のうち、『ロシアから来た黒船』植木静山(扶桑社)、『下田の歴史と史跡』(肥田喜左衛門(下田開港博物館)、『東海道と脇街道』小杉達(静岡出版社)の三冊を購入。
『駿河湾に沈んだディアナ号』奈木盛雄(元就出版社)は、ディアナ号が沼津の宮島と戸田との中間沖合いで沈んだことを検証する力作でしたが、予算の関係で購入を断念。また機会があれば手に入れたいと思っています。
ホテルで夕食を摂り、風呂に入って、翌日早朝に寺巡りをするために早々と就寝しました。
なぜ、寺巡りなのか。
戸田の見学先でおおよその見当がついたかも知れませんが、それは、明日、説明しましょう。
その見学が、今回の私の取材旅行の一番のポイントでした。
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