
その日は、中江兆民(篤助)が、開館したばかりの藩校文武館に通い始めてまだ四日目、文久二年(1862年)四月八日のこと。
当時藩主山内豊信(やまのうちとよしげ)のブレーンとして藩政改革を推進していた参政吉田東洋(元吉[もとよし])が、城からの帰り道、自宅近くの帯屋町の四つ角で三人の武士に襲われ、暗殺されるという事件が起きました。
東洋の首は、高知城下の町外れ、雁切橋(がんきりばし)近くの河原に晒(さら)されました。東洋の晒し首は翌朝になって発見され、そのニュースは高知城下はもちろんのこと、土佐全域にあっという間に広まりました。
兆民も、おそらく翌九日の早い時点で、そのことを耳にしていたはずです。
この参政吉田東洋暗殺の実行犯は、土佐勤王党のメンバーである那須信吾・大石団蔵・安岡嘉助の三名で、東洋の首を斬り落とした那須信吾らは、血のついた刀と鮮血のしたたる東洋の首をそばの溝で洗い、かねて用意していた古褌(ふんどし)に東洋の首を包んで、南奉公人町を抜け、思案橋観音堂に向かってひた走りました。
観音堂の前の河原で待機していた同志らに首を渡した三人は、かねてからの手はず通り、用意されていた旅用の荷物を受け取って同志に暇乞(いとまご)いをすると、土佐と伊予の国境(くにざかい)を越えて「出奔」(脱藩)し、長州に向かいます。
それからまもなく京都に出た三人は、藩吏の執拗(しつよう)な追跡を逃れるために、京都の長州藩邸や薩摩藩邸にかくまわれます。
やがて那須と安岡は、同じく勤王党の同志である吉村虎太郎とともに討幕挙兵を行い、那須は戦死、安岡は捕縛されて京都で処刑されてしまいます。
さて三人のうち残った大石団蔵はどうなったか。
大石団蔵は、東洋暗殺の三年後、元治二年(1865年)の春に、薩摩藩領串木野郷羽島浦の沖合いに姿を現します。団蔵は、他の薩摩藩留学生ら十八名とともに、長崎のイギリス商人トーマス・グラバーが手配した外輪型蒸気船に乗り、その日、まず香港へ、それから目的地であるロンドンに向かおうとしているのです。
名前は高見弥一、変名松元誠一。一行の中で、ただ一人薩摩藩士ではないメンバーでした(通詞の堀壮十郎〔後の孝之〕は長崎出身ですが、この時にはれっきとした薩摩藩士となっています)。
私が、この薩摩藩留学生一行のことを知ったのは、大学在学中に初代文部大臣森有礼のことを調べていた時です。犬塚孝明氏の『薩摩藩英国留学生』(中公文庫)がそのことについて詳しく調べてあり、そのメンバーの中にただ一人、高見弥一だけが「土佐藩の遊学生」として紹介されていたのです。「開成所第二等諸生」で「蘭学専修」とありますから、高見弥一は藩校で蘭学を学んでいたことになります。
東洋を殺害した三人のうちの一人、尊王攘夷を唱える土佐勤王党の一員であった団蔵は、鹿児島で蘭学を修め、この時イギリスに向かおうとしている。
当時の私は、この高見弥一が大石団蔵であることは全く知らず、『波濤の果て』の第一巻を書くためにいろいろ調べていく中で、そのことを知り、大いに驚きました。
その「高見弥一」(大石団蔵)の顔写真を、最近購入したばかりの本で知ることが出来、またまた大きな驚きを味わいました。
その本は、『明治の若き群像 森有礼旧蔵アルバム』(犬塚孝明・石黒敬章/平凡社)です。同書15ページの上段の写真は、まさに「高見弥一」(大石団蔵)のものでした。
写真の解説には、
「土佐藩士であったが薩摩藩で勉強していたこともあり薩摩藩留学生に加えられる。森とはグレーム博士宅に一緒に寄宿した」
と書かれています。
テーブルの上に置いたシルクハットに右手を置き、左手はズボンのポケットに入れ、髪はオールバック。全くの洋装で、目つきはやや厳しい。
薩摩藩に頼った大石団蔵が、なぜ蘭学を学ぶことになり、またイギリスに渡って何を学ぼうとしたのか。そして帰国後、彼はどう生きたのか。そこに一人の人間の大きなドラマを感じるのは私だけでしょうか。
大石団蔵が、その写真を通して、生々しく立ち現れてくるような気がするのです。
○他の主な参考文献
・『流離譚(りゅうりたん)』(安岡章太郎・新潮文庫・1986)
・『武市半平太』(入交好脩〔いりまじりよしなが〕・中公新書・1982)
・『吉田東洋』平尾道雄(吉川弘文館・1959)
・『中江兆民』飛鳥井雅道(吉川弘文館・1999)
当時藩主山内豊信(やまのうちとよしげ)のブレーンとして藩政改革を推進していた参政吉田東洋(元吉[もとよし])が、城からの帰り道、自宅近くの帯屋町の四つ角で三人の武士に襲われ、暗殺されるという事件が起きました。
東洋の首は、高知城下の町外れ、雁切橋(がんきりばし)近くの河原に晒(さら)されました。東洋の晒し首は翌朝になって発見され、そのニュースは高知城下はもちろんのこと、土佐全域にあっという間に広まりました。
兆民も、おそらく翌九日の早い時点で、そのことを耳にしていたはずです。
この参政吉田東洋暗殺の実行犯は、土佐勤王党のメンバーである那須信吾・大石団蔵・安岡嘉助の三名で、東洋の首を斬り落とした那須信吾らは、血のついた刀と鮮血のしたたる東洋の首をそばの溝で洗い、かねて用意していた古褌(ふんどし)に東洋の首を包んで、南奉公人町を抜け、思案橋観音堂に向かってひた走りました。
観音堂の前の河原で待機していた同志らに首を渡した三人は、かねてからの手はず通り、用意されていた旅用の荷物を受け取って同志に暇乞(いとまご)いをすると、土佐と伊予の国境(くにざかい)を越えて「出奔」(脱藩)し、長州に向かいます。
それからまもなく京都に出た三人は、藩吏の執拗(しつよう)な追跡を逃れるために、京都の長州藩邸や薩摩藩邸にかくまわれます。
やがて那須と安岡は、同じく勤王党の同志である吉村虎太郎とともに討幕挙兵を行い、那須は戦死、安岡は捕縛されて京都で処刑されてしまいます。
さて三人のうち残った大石団蔵はどうなったか。
大石団蔵は、東洋暗殺の三年後、元治二年(1865年)の春に、薩摩藩領串木野郷羽島浦の沖合いに姿を現します。団蔵は、他の薩摩藩留学生ら十八名とともに、長崎のイギリス商人トーマス・グラバーが手配した外輪型蒸気船に乗り、その日、まず香港へ、それから目的地であるロンドンに向かおうとしているのです。
名前は高見弥一、変名松元誠一。一行の中で、ただ一人薩摩藩士ではないメンバーでした(通詞の堀壮十郎〔後の孝之〕は長崎出身ですが、この時にはれっきとした薩摩藩士となっています)。
私が、この薩摩藩留学生一行のことを知ったのは、大学在学中に初代文部大臣森有礼のことを調べていた時です。犬塚孝明氏の『薩摩藩英国留学生』(中公文庫)がそのことについて詳しく調べてあり、そのメンバーの中にただ一人、高見弥一だけが「土佐藩の遊学生」として紹介されていたのです。「開成所第二等諸生」で「蘭学専修」とありますから、高見弥一は藩校で蘭学を学んでいたことになります。
東洋を殺害した三人のうちの一人、尊王攘夷を唱える土佐勤王党の一員であった団蔵は、鹿児島で蘭学を修め、この時イギリスに向かおうとしている。
当時の私は、この高見弥一が大石団蔵であることは全く知らず、『波濤の果て』の第一巻を書くためにいろいろ調べていく中で、そのことを知り、大いに驚きました。
その「高見弥一」(大石団蔵)の顔写真を、最近購入したばかりの本で知ることが出来、またまた大きな驚きを味わいました。
その本は、『明治の若き群像 森有礼旧蔵アルバム』(犬塚孝明・石黒敬章/平凡社)です。同書15ページの上段の写真は、まさに「高見弥一」(大石団蔵)のものでした。
写真の解説には、
「土佐藩士であったが薩摩藩で勉強していたこともあり薩摩藩留学生に加えられる。森とはグレーム博士宅に一緒に寄宿した」
と書かれています。
テーブルの上に置いたシルクハットに右手を置き、左手はズボンのポケットに入れ、髪はオールバック。全くの洋装で、目つきはやや厳しい。
薩摩藩に頼った大石団蔵が、なぜ蘭学を学ぶことになり、またイギリスに渡って何を学ぼうとしたのか。そして帰国後、彼はどう生きたのか。そこに一人の人間の大きなドラマを感じるのは私だけでしょうか。
大石団蔵が、その写真を通して、生々しく立ち現れてくるような気がするのです。
○他の主な参考文献
・『流離譚(りゅうりたん)』(安岡章太郎・新潮文庫・1986)
・『武市半平太』(入交好脩〔いりまじりよしなが〕・中公新書・1982)
・『吉田東洋』平尾道雄(吉川弘文館・1959)
・『中江兆民』飛鳥井雅道(吉川弘文館・1999)
ルーツや家族を思うと高知だし、どうしても明治維新にあたります。
いろいろ調べていて、ここにきました^^
殺すのも殺されるのも高知人。
つても不思議な気がします。
何をしようとしていたのでしょうか?
外国の何かの目的の為に動かされていたのでしょうか?
今、世の中、明治維新のこの頃ととても似ていると聞いて、興味深く調べています。
(最近になって坂本龍馬が何をした人なのかを知りましたが^^)
とっても貧しい国から、何かを変えようと動いた人がたくさんいたということなのでしょうか?
苦しさ紛れのバカ力。
また、次の時代への架け橋が、高知からもたらされるとしたら、良いことだなーーーと思ったりします。
幕末の土佐については、安岡章太郎さんの『流離譚(りゅうりたん)』(新潮文庫)がとても参考になります。安岡さんが、故郷の安岡家の歴史をたどった力の相当に入った作品です。私も、小説を書く際にずいぶん参考にさせていただきました。
上・下と二冊になっていて、かなり長い作品ですが、高知にお生まれとのことですから、よく知られている地名や人名が多く出てきて、面白く読めるのでは……。ただし歴史小説ではありません。
私は、中江兆民が終生考えていたことは、「犠牲を生む
ことなしに世の中が一つにまとまるということはありうるか」ということではなかったか、と思っています。「世の中」とは、土佐であり、日本であり、そして世界であったでしょう。
犠牲を生むことなしに、平和な世界を作り出すためには、どうしたらいいか。戦争や侵略という、武力で血で血を洗うような悲惨なことが繰り返されるようなことなしに、いかにして世界の平和(共生)は可能か。
私たち国民もそうですが、国民の支持と税金によって生業(なりわい)を立てている政治家の第一の仕事は、それを考え、それを実現することにこそあると思います。
私は福井市の出身です。やはりルーツや家族を考えると、同じように福井の幕末維新にぶつかります。
その福井に、土佐出身の坂本龍馬もやって来ます。
福井と土佐は、けっこう縁があるんですよ。
また、コメントしていただけるとありがたいです。
追記
自分で言うのもなんですが、幕末の土佐については、私の小説『波濤の果て 中江兆民の青春』(郁朋社)も参考になると思います。「手前味噌」ですが。
鮎川俊介