鮎川俊介の「幕末・明治の日本を歩く」

渡辺崋山や中江兆民を中心に、幕末・明治の日本を旅行記や古写真、研究書などをもとにして歩き、その取材旅行の報告を行います。

2006.冬の取材旅行「東海道赤坂宿・御油宿・吉田宿」

2006-12-31 13:23:43 | Weblog
 12月25日(月曜日)。朝5:00に起床。
 朝食を済ませて、5:40にホテル出発。
 
 6:30に赤坂宿に到着。「御休処よらまいかん」の側に駐車。ここ東海道赤坂宿は、京へ四十九里十六町、江戸へ七十六里二十六町。
 入った「かわや」は、男子トイレが写楽の男の顔のマーク、女子トイレは歌麿の美人絵のマーク。なかなか風流です。
 西隣に、音羽町図書館と赤坂公民館(駐車場有り)。

 ここ赤坂宿は、旅籠(はたご)が多く、「赤坂陣屋」(代官所)もあったそうです。ここには飯盛女も多く、「御油や赤坂吉田がなくば何のよしみで江戸通い」「御油や赤坂がなけりゃ親の勘当(かんどう)うけやせぬ」という歌があったといいます。

 街道を歩いて行くと、「御宿所」の提灯が店先にある大橋屋、昔の家の趣きをしのべる尾崎屋商店、浄泉寺(門を入って右手に樹齢260年の大ソテツ)、人馬のの継立(つぎたて)を行った問屋場の跡、現在は、新しい門と表札はあるものの空き地になっている本陣跡などがありました。

 赤坂宿には本陣が4軒あり、その一つが現在空き地になっているここ松平彦十郎家。ここは問屋も兼ねていたとのこと。間口は十七間半(約32メートル)、奥行は二十八間(約51メートル)と、堂々たる本陣屋敷でした。 

 車に戻り、赤坂宿を抜けると、しばらくして天王川に架かる橋。その手前で車を停め、両側に「天然記念物 御油ノ松並木」のある東海道を歩き始めました(7:10)。

 余談ながら、松並木を携帯で撮っていると、手前の駐車場にいすずの117クーペが。ナンバーから察するに、持ち主は、相当のこだわりの人と見受けました。

 太い松には、1本1本に白い番号札。左手の松並木の向こうは竹林。左前方の松並木の間からは、朝陽が差し上るところ。まことにぜいたくなウォーキングです(けっこう車がスピードを上げて通るので要注意。車進入禁止になり、路面も舗装ではなく昔のままになるとどんなにいいだろう、と、観光客の身としては思ってしまいました)。

 やがて右側に御油児童遊園(公園)。その中のトイレの後ろ側(街道に面した側)に案内板。「弥次郎兵衛、喜多八も歩いた御油の松並木」とあって、次のように書いてありました。

 「明治の初め頃までの御油の松並木の両側は、竹薮(たけやぶ)が延々と続く昼なお暗い所。狐狸(こり)の棲息(せいそく)し、夜な夜な餌(えさ)を求めて、田畑や街道へ出没し、作物を荒したりして人々を驚かす」

 松並木の尽きるところで左折。音羽川沿いの、水仙の花が点々と咲く土手道を歩き、五反(ごたん)橋で音羽川を渡り左折。川の両岸は桜並木。春はどんなに美しいだろう、と思いました。

 音羽川の堤を赤坂宿方面へ。川向こうに竹林や松並木。関川二号橋を渡ると、「見付跡」の案内板。ここは赤坂宿の東(江戸側)の見付で、西側(上方〔かみがた〕側は八幡社入口付近にあったそうです。明治7年(1874年)に取り壊されています。

 天王川に架かる一の橋を渡って駐車場に戻ったのは、7:51。

 東海道を車を走らせ、御油宿の案内板の前に着いたのは、7:56。

 案内板によると、御油宿は、上五井町・中上町・仲町・横町・茶屋町から成り立っていました。見所としては、「御油松並木資料館」(月曜日で閉館)やベルツ博士夫人「花」生家跡などなど。松並木は、「夏緑陰をつくり、冬は風雪を防ぐ」ものであり、もとは600本以上もあったとのこと。
 
 街道を行くと、途中「十王堂」や「イチビキ株式会社」の工場が街道両側にありました。工場には、朝早いというのにトラックが出入りしていて活気に溢(あふ)れ、左手の工場の駐車スペースでは、ダンボールの束と組み立てられたダンボールの箱がいっぱい。
 白帽子に白い上下の作業服を来た女性が道を渡ってきたので、

 「ダンボールを作っているんですか」(後になってみると見当違いの質問でした)と聞くと、
 「いえ、味噌です」
 との返事。

 新御油橋を渡ると、川の両側に桜並木。ここも春は綺麗だろうな、としばし立ち止まりました。

 「がましん」(蒲郡信用金庫?)の駐車場手前に、「御油一里塚跡の碑」。「江戸日本橋より七十六里」とありました。
 
 左手に大社神社。鳥居左側に何の木か巨木が立っています。

 新栄町二丁目の交差点のところで引き返します(8:28)。
 
 御油橋(こちらが東海道のルート。先に渡った新御油橋は新しいルート。川の名は五反〔ごたん〕川)を渡ると、左手に若宮八幡社。

 進むと右手に「これより姫街道」の石碑。

 ここ御油宿は、戸数316。本陣4。脇本陣0。旅籠(はたご)62。人口1298。町並の長さは、9町32間(約1040メートル)。

 御油郵便局駐車場で左折。左側に「世賜(せいし)堂」という町の本屋さんがありました。そこで『脳外科医が教えるボケ予防15か条』天野惠市(新潮社)を購入。

 歩いていると、中年の女性から、朝のあいさつを掛けられました。
 
 「歩いているんですか」
 「ええ」
 「資料館へ行かれるんですか」
 「今日は月曜だからお休みでしょう」
 「それは残念ですね。豊川の役所に行けば、ここらへんのマップがありますよ」
 「あのイチビキさんは、古いんですか」
 「Oさんという人がやっているらしいですよ」 
 「昔からお味噌を作っているんですか」
 「ええ、昔から作っているそうです。私はここに嫁に来たから、よくは知らないんだけど」
 「ありがとうございました」
 「いえいえ、頑張って」

 この旅行中、道を聞いたり、疑問なことを訪ねたり(お墓の供花のこと・図書館のこと・ホテルへの行き方など)しましたが、どの人も親切に対応してくれました。三河の人は、「篤実」(崋山も、田原生まれではありませんが「篤実」な人でした)という二文字があてはまるかな。嬉しいことでした。

 松並木の手前右側の、車を停めてあるところに戻りました(9:07)。ちゃんとした駐車場は、五反川を並木橋で渡った左手にあるそうです。

 車通りの多い(特にトラックが多い)国道一号線を豊橋方面に。豊川(とよがわ)を渡って豊橋市役所の立体駐車場に入りました。
 駐車場の出口で、行き会った若い女性に、
 「お城はどちらになりますか」
 と聞くと、
 「わからないんですが」
 (ここは、城址のはずなのだが……)
 と思いつつ、礼をして歩き出すと、先ほどの女性が振り向いて、
 「市役所の受付で聞いてみたらどうですか」
 と、言ってくれました。

 豊橋の市役所は、西館が8階、東館はなんと13階。13階には、レストランと展望ロビーがあることを確認。
 入口を入ってすぐに、「牛川人骨」のレプリカ。人骨は、豊橋市牛川町の石灰岩の採石場から見つかったもので、第一人骨は大人の女性のもの(左腕骨)、第二人骨は大人の男性のもの(左足骨)。約10万年前のもので、現存する化石人骨では国内最古のものであるとのこと。日本史の教科書や資料などにはよく出てくる化石人骨の名前です。身長は、男が約150センチ、女性が135センチと、背が低いのが印象に残りました(成年であることや身長などは、どのように測定したのでしょうか?)

 エレベーターで13階へ。展望ロビーからは、四方の景色を眺めました。

 10:00、ロビーからエレベーターで1階へ。 東玄関より、豊橋公園へ出ました。三の丸口御門跡の吉田城址の案内図によれば、この城址には、市役所・豊城中学校・豊橋市美術博物館・三の丸会館などの公共施設が入っています。それでも公園は木々が繁り、広々としていました。

 冠木(かぶらき)門跡、堀跡、本丸御殿跡、鉄櫓(くろがねやぐら)跡、武具所跡、本丸井戸跡、裏御門跡などが点在。まわりを石垣で囲まれている本丸御殿の跡の中では、中学生の男女が、ドッジボールを楽しんでいました。本丸跡でドッジボールとは、なかなか優雅なドッジボール。鉄櫓(くろがねやぐら)は復元したものですが、公園内の景色のポイントになっています。櫓の背後に豊川(とよがわ)が屈曲し、川べりに遊歩道が設けられています。

 公園内には、「歩兵第十八聯隊(れんたい)之跡」の石碑もありました。昭和53年(1978年)に、グアム島及びサイパン島(いずれも激戦地です)に、「歩十八会(戦友会)」が、それぞれ慰霊碑を建立したとも書いてありました。
 また「歩兵第二百二十九聯隊記念碑」もありました。この連隊は、昭和14年8月に編成を完結し、同9月に軍旗を拝受。同10月に豊橋出発。中国の良口会戦と香港攻略戦、南部スマトラ作戦、ガダルカナル島の戦を含むニューギニア作戦、さらに、ムンダ・ズンゲン・ラバウルなどを戦場としたソロモン及びビスマルク群島防衛戦、第五次ビスマルク作戦などに参加。昭和20年(1945年)の敗戦を、ニューブリテン島ラバウルで迎えます。同年8月18日に軍旗を奉焼(軍旗を焼いたわけです)し、昭和21年5月25日に名古屋港に帰還しました(説明文による)。

 豊橋市美術博物館(月曜日で閉館)の前を通り、駐車場の横を通って、朝倉川に下りました。朝倉川が右手に見えます。ここは城の北側(鉄櫓の下)。正面に吉田大橋が見えます。川を見ながらその遊歩道を歩いて、吉田大橋の手前で左側の階段を上ると、「吉田大橋記」の碑。それによれば、この橋はもとは東海道の四大橋の一つと云われ、幕府直営の橋であったとのこと。左側の豊城中学校のフェンスには、「530運動」と書かれた垂れ幕がありました。

 10:55に駐車場に到着。駐車料金を400円取られました。
 市役所を利用した人が、市役所の駐車場を利用して、駐車料金400円を払わなくてはならない、というのは解(げ)せません。もっとも、私は豊橋市民ではありませんが……。綾瀬市役所の駐車場でも、田原市役所の駐車場でも、駐車料金は取られなかった(自宅に帰ってから、妻に聞くと、市役所を利用した場合、はんこを押してもらえば駐車料金は無料になるということです。もしかしたら、ここ豊橋市役所でも、そのようにやっているのかも知れません。確認してはいません)。もし、税金を払っている市民が、市役所に諸手続きの用事などでやってきて、さらに駐車料金を支払わねばならない、ということであれば、納得出来ないことです。

 気分を変えるために、CDは、バッハの『ブランデンブルグ協奏曲』(家までずっとそれを聴きました。なかなか、ドライブをしながら聴くといいですよ。モーツァルトの協奏曲などもそうですが)に変えました。

 国道一号線に出ると、可愛い市電が走っていました。東海道を走る市電はここだけだそうです。東京や広島や長崎などからやってきた市電も走っているとのこと。

 ※余談ながら、広島の市電の中には、被爆経験のある電車(60年以上も前の電車になります)が2両走っていることを、最近知りました。

 時間があるので、清水ICまで、一般道(国道一号線)を走っていくことにしました(沿道の町や景色をゆっくり見たいので)。浜松を過ぎて、天竜川を渡り、磐田(いわた)・袋井を経て「道の駅掛川」に。そこで、お土産などを買い、昼食を摂りました。島田を過ぎて大井川を渡り、藤枝を経て安倍川を渡り静岡市街へ。清水市街で、「県立中央図書館・県立美術館」の入口を確認。16:20に、清水ICから東名に入りました。
 
 厚木ICに着いたのは17:50。いつものことながら国道129は大渋滞。途中、左手にある「すき家」で牛丼ライトセット(ご飯の代わりにお豆腐が入っています。450円)を食べ、19:30に、我が家に無事到着。愛車キューブの走行距離は、750キロでした。

 これで今回の取材旅行の報告は終わりですが、豊橋市役所の隣の豊城中学校のフェンスにあった「530運動」の読みはわかりましたか。

 「なぞなぞ」のようなものですね。その答えは、次回に回しましょう。

 長い報告になりましたが、ここまで読んでいただきありがとうございました。

 かなり細かい内容になりましたが、私にとって、このブログは、取材ノートとともに備忘録にもなるのです。

 またしばらくは、泊を伴う取材旅行はお預けになります。

 次回は茨城県の水戸市およびその周辺、または、福井県の福井市(私の故郷)およびその周辺を考えています。

 では、また。

 よき新年をお迎えください。


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