お寺の案内板で、清水清次・間宮一(はじめ)の名前を見て、思わず、文字通り横道に入ってしまいました。
苔で緑がかった石段を上ると、右手に「平成の地蔵尊」、左手に横浜市の名木古木指定のイチョウの木がありました。山門を潜ると、左手にやはり名木古木指定のタイサンボク。
本堂の前を進むと、突き当たりが墓域になります。その墓域の手前に、「鳶の小亀 清水清次 間宮一 の墓」の案内標示がありました。
本堂の左手を、背後の丘の方へ上がっていき、途中で左折するとまず「鳶の小亀」の墓がありました。慶応2年(1866年)の2月のことであったらしい。酒に酔った二人のフランス人水兵が、港崎(みよざき)遊郭に入り、娘(芸妓か)を手込めにしようとしたところ、駆けつけてきた鳶の小亀が、持っていた鳶口で水兵一人を殺害してしまったという事件。市中引き回しの日には、沿道に、横浜の芸者や鳶職の者たちが総出で繰り出し、木遣(きやり)音頭を唄い、小亀の冥土への花道を飾った、という。この小亀も、「市中引き回しの上、獄門」という重い処罰を受けたのでしょう。処刑場所は、当然のことながら、「くらやみ坂」の戸部の刑場であったことでしょう。
「鳶の小亀」の墓からさらに5mほど奥に入って、右手に折れ、階段を上がった突き当たりを左折して5mほど入った右側に、清水清次と間宮一の墓が、墓1基を隔てて並んでいました。左が清水、右が間宮の墓でした。
戻って、山門を潜って石段を下りると、左手に「故陸軍歩兵一等兵卒K之碑」があり、また「平成の地蔵尊」の裏手にも、「故陸軍歩兵一等兵」の碑がありました。その名前を確認すると、なんと「清水清次」と刻まれていました。もちろん同姓同名で別人なのですが、あの「清水清次」を意識して、親が命名したのでしょうか。
願成寺を出て、保土ヶ谷道に戻る。
西区役所通り中央商店街を進むと、左手に神社の杜が見えたので、西区総合庁舎の左手の道を神社に向かって進みました。
杉山神社という神社でした。ここには、社殿前の参道両脇に「ねずみの像」がありました。しかもそれは回転するのです。ねずみは、大国主命(オオクニヌシノミコトの命の恩人?であり、お使い。大国主命を祭った神社には、子神社(ねのじんじゃ)と呼ばれるお宮さんが併設されている場合があるという。右側がオスで左側がメス。左側が胸のふくらみがやや大きいが、形はほとんど同じ。「打ち出の小槌」のようなものを持っている。何回か回転させてみましたが、ねずみは、外側の石鳥居の方ではなく、社殿の方に向かって止まりました。何か細工がしてあるのだろうか、それとも偶然なのだろうか。珍しい置き物でした。
もとに戻り、ローソンを過ぎ、いとうや酒店のところで右折して坂道に差し掛かりますが、これが「くらやみ坂」でした。坂道の手前に、「西区歴史街道 保土ヶ谷道」の案内柱がありました。
急な坂道を上がっていくと、左手に「伊勢町もくせい公園」があり、このあたりが「くらやみ坂上」になる。ここのベンチに座って小憩。持ってきたペットボトルの2本目を飲み干しました。
この辺りは、かつて戸部刑場があったところではないか、と思われましたが、たしかなところはわかりません。公園の上、保土ヶ谷道に沿って左側に「くらやみざか」の碑がありました。左手にランドマークタワーが見えます。
願成寺も、もともとはこの「くらやみ坂」の近く(戸部刑場の近く)にあったのです。
坂を下ると、伊勢町一丁目商店街に入りました。やや歴史を感じさせる建物が両側に並びます。この商店街を抜けた右側角に「西区歴史街道 保土ヶ谷道」の案内柱。ここを右折すると、間もなく「横浜道」に合流するのです。
ここの町内会の案内板には、「江戸の町だよ伊勢町は」という行事の案内がありました。主催は伊勢町一丁目、協賛は伊勢町一丁目江戸の町委員会。日時は8月23日17:30からと、8月24日14:00~16:30。江戸の町並みと江戸の食文化を基に模擬店を行うとのこと。
9:22、「横浜道」と合流。右折して「野毛の切り通し」を抜け、右手にかなりしっかりした古い石組みを見て、歩道を渡り左折(右折すると市立中央図書館や野毛山公園)。日本中央競馬会の「ウィンズ横浜B館」周辺の人の流れを抜けて、「野毛3丁目交差点」を渡って「野毛本通り」に入ります。
左手に「野毛 お茶のり 三河屋」を見て、都橋に差し掛かる。この橋の手前右側に川に沿って延びる商店街は「都橋商店街」。長細い2階建てのビルに商店や飲み屋が密集している、ちょっとレトロな空間です。
都橋を渡り、吉田町に入る。商店街を抜けて、「右折伊勢佐木町 左折関内駅」のところで左折。吉田橋(関門があり、また晒し首が行われたところ)を渡って馬車道へ。
この馬車道については、以前に触れたのでここでは記しません。ただ、「泉平」のあったところが工事中でした。「建物建替のため仮店舗にて営業しています」とのこと。この三角形の狭い空間に、新しい店舗が出来るようです。
本町四丁目の交差点で右折。本町通りに入る。この本町通りの下には、「みなとみらい線」が走っており、「馬車道駅地下道」がある。
本町三丁目→本町二丁目→本町一丁目交差点を過ぎると、右手に「横浜市開港記念会館」。
「県庁前」交差点を過ぎ、「日本大通り」にぶつかる。かつて左手、すなわた港側に見えていた倉庫はなくなっています。この「日本大通り」を右折。前方左手に「横浜スタジアム」が見えますが、これがかつての「港崎(みよざき)遊郭」の跡地と重なる。
旧横浜地方裁判所の建物を過ぎたところで右折。「みなと大通り」に入って左折。左手に「日本銀行 横浜支店」を見て、「相生町一丁目」交差点を渡って、左手の「横浜公園」に入りました。入って左手の樹下のベンチで、横浜スタジアムや公園内を行き交う人々を眺めながらしばし休憩。
しばらくの後、幕末の「港崎(みよざき)遊郭」をかすかにしのばせる日本庭園の方へ足を向けました。
続く
○参考文献
・『幕末異人殺傷録』宮永孝(角川書店)
ネット
・「鎌倉英人殺害事件」
苔で緑がかった石段を上ると、右手に「平成の地蔵尊」、左手に横浜市の名木古木指定のイチョウの木がありました。山門を潜ると、左手にやはり名木古木指定のタイサンボク。
本堂の前を進むと、突き当たりが墓域になります。その墓域の手前に、「鳶の小亀 清水清次 間宮一 の墓」の案内標示がありました。
本堂の左手を、背後の丘の方へ上がっていき、途中で左折するとまず「鳶の小亀」の墓がありました。慶応2年(1866年)の2月のことであったらしい。酒に酔った二人のフランス人水兵が、港崎(みよざき)遊郭に入り、娘(芸妓か)を手込めにしようとしたところ、駆けつけてきた鳶の小亀が、持っていた鳶口で水兵一人を殺害してしまったという事件。市中引き回しの日には、沿道に、横浜の芸者や鳶職の者たちが総出で繰り出し、木遣(きやり)音頭を唄い、小亀の冥土への花道を飾った、という。この小亀も、「市中引き回しの上、獄門」という重い処罰を受けたのでしょう。処刑場所は、当然のことながら、「くらやみ坂」の戸部の刑場であったことでしょう。
「鳶の小亀」の墓からさらに5mほど奥に入って、右手に折れ、階段を上がった突き当たりを左折して5mほど入った右側に、清水清次と間宮一の墓が、墓1基を隔てて並んでいました。左が清水、右が間宮の墓でした。
戻って、山門を潜って石段を下りると、左手に「故陸軍歩兵一等兵卒K之碑」があり、また「平成の地蔵尊」の裏手にも、「故陸軍歩兵一等兵」の碑がありました。その名前を確認すると、なんと「清水清次」と刻まれていました。もちろん同姓同名で別人なのですが、あの「清水清次」を意識して、親が命名したのでしょうか。
願成寺を出て、保土ヶ谷道に戻る。
西区役所通り中央商店街を進むと、左手に神社の杜が見えたので、西区総合庁舎の左手の道を神社に向かって進みました。
杉山神社という神社でした。ここには、社殿前の参道両脇に「ねずみの像」がありました。しかもそれは回転するのです。ねずみは、大国主命(オオクニヌシノミコトの命の恩人?であり、お使い。大国主命を祭った神社には、子神社(ねのじんじゃ)と呼ばれるお宮さんが併設されている場合があるという。右側がオスで左側がメス。左側が胸のふくらみがやや大きいが、形はほとんど同じ。「打ち出の小槌」のようなものを持っている。何回か回転させてみましたが、ねずみは、外側の石鳥居の方ではなく、社殿の方に向かって止まりました。何か細工がしてあるのだろうか、それとも偶然なのだろうか。珍しい置き物でした。
もとに戻り、ローソンを過ぎ、いとうや酒店のところで右折して坂道に差し掛かりますが、これが「くらやみ坂」でした。坂道の手前に、「西区歴史街道 保土ヶ谷道」の案内柱がありました。
急な坂道を上がっていくと、左手に「伊勢町もくせい公園」があり、このあたりが「くらやみ坂上」になる。ここのベンチに座って小憩。持ってきたペットボトルの2本目を飲み干しました。
この辺りは、かつて戸部刑場があったところではないか、と思われましたが、たしかなところはわかりません。公園の上、保土ヶ谷道に沿って左側に「くらやみざか」の碑がありました。左手にランドマークタワーが見えます。
願成寺も、もともとはこの「くらやみ坂」の近く(戸部刑場の近く)にあったのです。
坂を下ると、伊勢町一丁目商店街に入りました。やや歴史を感じさせる建物が両側に並びます。この商店街を抜けた右側角に「西区歴史街道 保土ヶ谷道」の案内柱。ここを右折すると、間もなく「横浜道」に合流するのです。
ここの町内会の案内板には、「江戸の町だよ伊勢町は」という行事の案内がありました。主催は伊勢町一丁目、協賛は伊勢町一丁目江戸の町委員会。日時は8月23日17:30からと、8月24日14:00~16:30。江戸の町並みと江戸の食文化を基に模擬店を行うとのこと。
9:22、「横浜道」と合流。右折して「野毛の切り通し」を抜け、右手にかなりしっかりした古い石組みを見て、歩道を渡り左折(右折すると市立中央図書館や野毛山公園)。日本中央競馬会の「ウィンズ横浜B館」周辺の人の流れを抜けて、「野毛3丁目交差点」を渡って「野毛本通り」に入ります。
左手に「野毛 お茶のり 三河屋」を見て、都橋に差し掛かる。この橋の手前右側に川に沿って延びる商店街は「都橋商店街」。長細い2階建てのビルに商店や飲み屋が密集している、ちょっとレトロな空間です。
都橋を渡り、吉田町に入る。商店街を抜けて、「右折伊勢佐木町 左折関内駅」のところで左折。吉田橋(関門があり、また晒し首が行われたところ)を渡って馬車道へ。
この馬車道については、以前に触れたのでここでは記しません。ただ、「泉平」のあったところが工事中でした。「建物建替のため仮店舗にて営業しています」とのこと。この三角形の狭い空間に、新しい店舗が出来るようです。
本町四丁目の交差点で右折。本町通りに入る。この本町通りの下には、「みなとみらい線」が走っており、「馬車道駅地下道」がある。
本町三丁目→本町二丁目→本町一丁目交差点を過ぎると、右手に「横浜市開港記念会館」。
「県庁前」交差点を過ぎ、「日本大通り」にぶつかる。かつて左手、すなわた港側に見えていた倉庫はなくなっています。この「日本大通り」を右折。前方左手に「横浜スタジアム」が見えますが、これがかつての「港崎(みよざき)遊郭」の跡地と重なる。
旧横浜地方裁判所の建物を過ぎたところで右折。「みなと大通り」に入って左折。左手に「日本銀行 横浜支店」を見て、「相生町一丁目」交差点を渡って、左手の「横浜公園」に入りました。入って左手の樹下のベンチで、横浜スタジアムや公園内を行き交う人々を眺めながらしばし休憩。
しばらくの後、幕末の「港崎(みよざき)遊郭」をかすかにしのばせる日本庭園の方へ足を向けました。
続く
○参考文献
・『幕末異人殺傷録』宮永孝(角川書店)
ネット
・「鎌倉英人殺害事件」
となりの公務員公舎のある一帯が、牢屋敷です。
この刑場は牢屋敷のそばの三角地の中にあり、先端の三角の公園です。
鮎川 俊介
「ものがたり西区の今昔」によると、くらやみ坂刑場(戸部刑場)の跡は、暗闇坂に面し、坂を上り詰めた所の三角地のところだそうです。
刑場跡には代々人は済まないでしょう。空き地は三角地の突端の、三角の公園となっているところ。(伊勢町3-133-8)
そして、保土ヶ谷道はその先で曲がってしまうので、ここしかない。
参考に、その三角のさらに突端には、現在公園と隔てて小さな社が二つありますが、なんでしょうね?。関係が有るのでしょうか?。それとガス会社の昇圧施設がある。
下の写真では、【くらやみざか】(ひらがな)の石碑 のすぐ左のブロックの手前にある三角の公園。右手の高い石垣は中学校の運動場。
http://home.comcast.net/~bluestage/butai/stage9.htm
刑場と牢屋敷を隔てて道が在り、トンネルのように木で覆われたさびしいところだったそうです。右の牢屋敷では斬首(非公開)、左の刑場では鳩首や磔が行われる怖いところでしょう。
このあたりは昔は保土ヶ谷道で旧東海道と横濱村の港、特に青少年センターのあたりにあったという神奈川奉行所をつなぐ要衝だったようですね。
戸部刑場は安政6年に設置され、神奈川奉行所がつかっていた。
なお、くらやみ坂で行われたとされる磔写真は駿河台(御茶ノ水駅)の明治大学地下の刑事博物館に大きな写真展示されています。
以下に参考資料を。
(参考)
・「ものがたり西区の今昔」(昭和48年7月2日発行)横浜西区観光協会1973
・『西区郷土史研究會会報 6号』 横浜市立図書館にある。
・「横浜市史稿」(横浜市1931-1933)
・『神奈川県史料』3巻
・横浜貿易新報社編「横浜開港側面史」(横浜貿易新報社 1909、歴史図書社1979)
・戊辰物語 (岩波文庫 青 431-1) (岩波書店1983、新人物往来社1970)
・名和弓雄『拷問刑罰史』(雄山閣1963,1987)
(くらやみ坂刑場の写真の経緯などが書かれている。)
『西区郷土史研究會会報 6号』以外、国立国会図書館、神奈川県立図書館、横浜市立図書館いずれにもある。「横浜市史稿」については横浜開港資料館にもある。「戊辰物語」については購入可。
・長崎大学附属図書館所蔵「磔付と晒首」(幕末から明治初年に掛けて、磔付と晒首を執行した事件リスト。)
・OLD TEXT
http://www.ne.jp/asahi/hagaken/mmm21w/OLDTEXT/Y02/text0210A.html
鮎川俊介
父の雑誌にあの写真が載っていたのです。鎌倉事件などとの関係は最近しったばかりです。「くらやみ坂」というのがどこにあるのかについては、そのころから興味を抱いていました。
仕事の関係で「鈴が森」の近くにも行ったことがありました、その後横浜に来ました。何気なく地図を見ていたら「くらやみ坂」というのが書いてあるではありませんか。
「くらやみ坂」というのは、東京にも、全国にたくさんあるそうですが、意外と横浜駅に近いところ、京急で横浜から一つ目の駅から10分程度のところにあることに驚いたわけです。
旧東海道は、東海道線の西にあり、東海道線の横浜の次は「保土ヶ谷駅」で、昔保土ヶ谷宿があって、その保土ヶ谷宿と開港地横濱村とを結ぶ当時の唯一の陸路だったそうですね。
多分当時は舗装もジャリ舗装もしてないだろうから、雨でも降れば、びちゃびちゃの抜かり路だったでしょう。たぶんくらやみ坂を登るのはたいへんだったことでしょう。ここに「関門」があったそうです。
むかし重要路には関所が設けられていたそうです。同じように刑事施設としての牢屋敷、関所ではそこに磔場があったようですから、そこにそういう場所があったというのもわかります。
ここはひどいでしょう。鈴が森が220年間に22万人の処刑が行われたのに対し、せいぜい10年程度だからどのくらいなのでしょう。
いつもすぐ隣で、処刑が執行されそのときのたぶんこの世のものと思えぬ叫び声も聞かされているはずです。
処刑が決まり、そこから馬に載せられて、引き市中回されて、坂を上ってここに戻ってくるときの罪人の心情たるやいかに。
公園と、ポストのある公舎のある地域を隔てる道は今でもありますね。この道を超えたとき罪人は公開処刑となったことでしょう。
この付近は、知らなければ、何こともないところですが、公園のそばの路[保土ヶ谷道)を曲がらず、細い道を西区役所の方にまっすぐ行く道は、何か昔の面影が感じられます。
保土ヶ谷道は開港当時、東海道保土ヶ谷宿と横濱村を結ぶ唯一の陸路で関門があったという。
中学校の上の緑の△しるしが「くらやみざか」碑がそばにある公園。
当時の路は、歩道もなく今よりずっと細かったはず。
このすぐ先で保土ヶ谷道は、公園のところから離れ左へ曲がっている。
http://www.city.yokohama.jp/me/nishi/midokoro/rekishikaido/rekishikaido03.html
現在の地図
http://map.yahoo.co.jp/pl?lat=35.44955889&lon=139.62171083&ac=14103&az=3.3.16.8&v=2&sc=3
処刑場や晒し首の場は、今までの取材旅行で通りかかっていくつか見てきていますが、今は公園になっていたり、供養碑などが密集している一郭になっていたり、お寺に隣接していたりするところが多いように思われました。
処刑場や晒し首の場所というのは、やはり付近の人々の記憶に刻まれているところであって、人家はなかなか建ちにくい場所であったのでしょう。公共機関になっているところも多いようです。
晒し首の場所は、横浜では吉田橋関門の際にあったことからもわかる通り、人々の行き交う目立つところにあったように思われます。
東海道では、橋のたもとなどにあり、そこには地蔵さまであったり供養碑などが、現在においても残っている場合が多いようです。
海や町を見下ろすような処刑場も多い。
要するに繁華街から離れているところにあるのですが、戸部の刑場もその一つの例。
かつては横浜を見下ろす高台で、人家はほとんど無かったところが、市街地の拡大によって、今は人家などに埋もれる小さな公園として残っているわけです。
かつては刑場の近くにあった願成寺が、処刑された罪人たちを葬り、場合によっては回向なり供養する場所であったのでしょうが、現在は、その願成寺は「くらやみ坂」の下に移転しています。
ということは、清水清次や間宮一や、「鳶の小亀」などのお墓は、かつての願成寺のお墓からわざわざ現在あるところに移されてきた、ということになります。
ほかにも罪人たちの供養碑・集合墓などがあったと思われますが、それらは果たして移転されたのでしょうか。
横浜は、外国に開かれた開港地であり、幕末維新期においては、経済や思想や文化の軋轢により、さまざまな事件が発生し、中でも凶悪事件についてはその加害者については斬首という厳しい処刑が行われました。
神奈川奉行所が設置されて、それが廃止されるまでは、わずかな期間でしたが、それでもこの戸部の刑場で処刑された罪人の数はそれなりの数になるのではないかと思われます。
横浜の幕末維新の一つの側面を探る時、戸部刑場の跡地や願成寺のお墓は、重要な史跡であると思います。
鮎川俊介
くらやみ坂にあった刑場の処刑者を慰霊するための慰霊碑は、明治27(1894)年に西区平沼1-20-6の久成寺に移されたということです。
正面の門前にある石塔は、処刑者の慰霊塔としてくらやみ坂にあったものという。刑場で処刑された罪人の数など詳細を把握してるかもしれませんね。
http://www.city.yokohama.jp/me/nishi/midokoro/sozoro/sozoro53.html
http://shrine-temple.jp/map
(参考)
・「横浜開港見聞誌」
文久2年(1862)に出版された「横浜開港見聞誌」は、開港して3年足らずの地横浜の”賑わい”を普く描き出し、当時の庶民の驚きと好奇心を醸しだしている。
http://home.a04.itscom.net/forest/
・横浜御開地(おんかいち)明細之図[安政6 年(1859)
・「地図情報」(Vol.20 No,4)地 図情報センター発行
特集:開港場の地図
http://princetown.blog50.fc2.com/blog-entry-76.html
http://wwwsoc.nii.ac.jp/icic/01_CHIZUJOUHOU/20/mi20-4.html
・神奈川県立図書館所蔵の「横浜村 近傍之図」
http://park.geocities.jp/oshipapahouse/kaikou.htm
もとは「くらやみ坂」にあったとも。
折りを見て、その久成寺というお寺を訪ねてみたいと思っています。
慰霊塔として集合的に慰霊・供養されている中で、願成寺にある清水清次や間宮一、「鳶の小亀」などは、ちょっと例外的なのかも知れません。
諸事情により、一部の外国人の振る舞いに対して反感を抱いていた人々も当然のことながら存在したわけで、その人たちにとっては、彼らは忘れ難い処刑者であったのでしょう。
途中、「戸部村」に細長い建物があるが、これが「牢屋敷」でしょう。「戸部村」といった場合大体、今の伊勢町あたりを指すようです。
「伊勢町公務員公舎」これは県庁職員宿舎ですが、ここが細長い建物が建っていたあたりでしょう。
江戸時代の「公事方御定書」による残酷な刑が正式に廃止されたのは、よく分からないが明治6年の「改定律例」のようですね。
【慰霊碑】は、小塚原刑場、鈴カが森刑場跡にもありますが、たぶんその後に立てられたのでしょう。
久成寺門外の碑の説明には、「戸部くらやみ坂刑場」に在ったものを移したものとの説明書きがあります。
Hpによると、久成寺は、もともと日蓮宗の本家、千葉県に在って、明治25年に移ってきたとのことですね。