鮎川俊介の「幕末・明治の日本を歩く」

渡辺崋山や中江兆民を中心に、幕末・明治の日本を旅行記や古写真、研究書などをもとにして歩き、その取材旅行の報告を行います。

2008.11月「根岸~能見台」取材旅行 その2

2008-11-19 06:28:10 | Weblog
 JR根岸線の根岸駅前から大通り(山下・本牧・磯子線)の「根岸駅前」信号を渡ると、正面が神奈川県保健教育センター(かつては神奈川県衛生看護専門学校であったらしい)の建物。その門の前を大通りに平行して走る道が、旧道(不動道)であり、かつての根岸村の生活道路ということになる。

 その道を左折し、金沢方面へ進みます。かつては左側に松の木が延々と並び、その松の木の間から砂浜と根岸湾の海が見えました。根岸湾とは、外国人たちが「ミシシッピー・ベイ」と呼んだ海。ホーズの「横浜周辺外国人遊歩区域図」にも、「Mississippi Bay」と記載されています。

 しばらく進むと、右手に「根岸大聖院」の山門があり、その左隣に「子育水子 地蔵菩薩」がありました。この大聖院は高野山真言宗。この近辺には、なぜか「高野山真言宗」のお寺が多い。門を入ってすぐ左に「故陸軍歩兵軍曹TY之碑」があり、またその左隣にも「故陸軍歩兵上等兵AS之碑」がありました。

 この門前の「不動道」を写真におさめた後、少し道を戻って自宅の前を掃いていた年輩の女性に声を掛けました。その女性の話によると、やはりこの道は旧道で、かつてはもっと狭い道であったとのこと。現在も、大通りから見るとはるかに狭い道ですが、かつてはもっと狭かったというのです。新宿の神楽坂からここに嫁いで来て、現在、70歳ということだから、50年近く前までは昔ながらの道のようすであったということになります。嫁いで来た時、大通りはあったものの、その向こうは草っ原で、今見るようなマンションなどの建物は何も建っていなかったとのこと。つまり埋め立てられてはいたものの、まだ何も建てられてはいなかったということになります。

 市電が走っていて、堀割川の八幡橋(やわたばし)のところで右折して、掘割川に沿って進んでいたとのこと。

 保健教育センターの跡地やマンション建設計画などの話もいろいろとしてくれました。

 お礼を言って、ふたたび大聖院の前を通って旧道をしばらく進んでいくと、広い通りに出ました。この通りは「根岸疎開道路」というらしい。名前の由来はよくわからない。変わった名前です。その通りを右折すると、右手に「横浜市立根岸小学校」がありました。校門に「明治六年創立」とある。すなわち、先に見た「大聖院」内に設けられた根岸村最初の小学校「志敬学舎」の後身が、この「根岸小学校」であるということです。

 看板に従い神社の方へ道を右折。路地を入っていくと右手に古風な2階建ての民家があり、目を引きました。その民家の裏手、根岸台と呼ばれる丘陵のふもとに「根岸八幡神社」がありました。

 この神社の石段左手に案内板があって、そこには「神奈川県指定天然記念物 根岸八幡神社の社叢林」とありました。その解説によると、この社叢林を構成しているのは、スダジイ・タブノキ・カクレミノ・ヤブツバキ・シロダモ・モチノキなどの常緑広葉樹林。丘陵の斜面上部はスダジイの群集であり、斜面下部はタブノキ・ケヤキ・シロダモが群生しているのだという。「根岸埋立地に面した最後の郷土の自然林」であるというからには、ベアトが幕末に撮った根岸の丘陵斜面の樹林をそのままに留めている「社叢林」だということになります。

 石段を上がっていくと、左手に「ねぎし幼稚園」。境内には「名木古木指定」(横浜市)の古色蒼然とした樹皮を持つタブノキがありました。

 石段を下り、石鳥居を潜りますが、その左手には、やはり「名木古木指定」のイチョウの木があり、これがこの「根岸八幡神社」の「神木」でした。

 ふたたび「根岸疎開道路」に出て右折。しばらく進むと道は左手にカーブしますが、曲がらずにそのまま細い道に入って行くと、右手に「根岸なつかし公園(旧柳下邸)」がありました。

 旧道(不動道)から「根岸疎開道路」にぶつかったところで、旧道がどこかわからなくなり、丘陵がある方向へ進んで「根岸八幡神社」やこの「根岸なつかし公園」に出会うことになりました。

 この旧柳下邸は、根岸台のふもとにその地形を生かして建てられた洋風の邸宅。解説によると、明治~大正期の有力商人柳下氏が建てたもの。大正12年(1923年)の関東大震災で一部崩壊したものの建物はずっと維持されてきました。しかし平成8年(1996年)に横浜市の取得するところとなり復元工事が行われ、平成14年(2002年)に市指定有形文化財になったという。

 開館時間は9:30~16:30。現在時刻は7:41。ということで、中を見学するのはまた別の機会ということにして、もとの道(根岸疎開道路)に戻り右折。磯子・金沢方面へ進みました。

 「根岸台」と呼ばれる丘陵は、この旧柳下邸の左手のあたりで尽きるようです。


 続く


○参考文献
・『F.ベアト幕末日本写真集』(横浜開港資料館)
・『明治日本旅行案内 東京近郊編』アーネスト・サトウ編著 庄田元男訳(東洋文庫/平凡社)


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