鮎川俊介の「幕末・明治の日本を歩く」

渡辺崋山や中江兆民を中心に、幕末・明治の日本を旅行記や古写真、研究書などをもとにして歩き、その取材旅行の報告を行います。

2008.11月「根岸~能見台」取材旅行 その1

2008-11-18 06:13:04 | Weblog
 JR根岸線の根岸駅前を歩き出したのは、早朝6:40。10月の取材旅行では、外国人遊歩道を通って、ここ根岸駅まで歩き、ここからタクシーに乗って京急屏風ヶ浦駅まで行ったのです(横須賀に用事があったので)。

 前回、大通り(山下・本牧・磯子線)よりも一つ丘陵(山手)寄りの細い道を歩き、その道がかつての生活道路(旧道)ではなかったかと推測しましたが、おそらくそうであったようです。

 というのも、このJR根岸駅の駅前に根岸の案内マップ(「祖父たちが語る根岸マップ」)があって、それには、「不動道」、「鎌倉道」、「保土ヶ谷道」、第一期埋め立て(大正12年~昭和初期)、第2期埋め立て(昭和20年まで)、第3期埋め立て(昭和22年まで)、第4期埋め立て(昭和35年~37年頃まで)のラインが、色分けされて示されており、「不動道」は、大通りよりも一つ内陸部に入った道、すなわち私が前回歩いた道と一致していたからです。

 この「不動道」の「不動」とは、「不動坂」の「不動」であり、すなわち「不動坂」の下に登り口の石段がある「白滝不動尊」の「不動」のこと。根岸村の人たちや冨岡・金沢方面の人たちが「白滝不動尊」へお参りに行く道であるから「不動道」と呼んだに違いない。

 『F.ベアト幕末日本写真集』のP24に、遊歩新道(外国人遊歩道)の不動坂より根岸湾を望んだ写真がありますが、この写真右手の、根岸湾に沿った家並みが根岸村の一部。この根岸村と丘陵(山手)の間には田んぼや畑が広がっています。坂を折りきって左折すれば、そこには白滝不動尊へ登る石段に続く参道があって、その両側には参詣客が休んだり泊まったりすることが出来る茶屋や旅籠が連なっていました。石段をちょっと上がって左の細道に入れば、豪快な滝の音が響く「白滝」がありました。

 この写真をよく見てみると、根岸村の家々は海岸線に沿っていて、海岸線には木々が茂っています。海岸に沿って木々(松の木と思われる)が延々と伸び、その内側(内陸部)に民家がこれまた延々と並び(ただし白滝不動尊の参道沿いには家々が密集)、その民家と丘陵の間に田んぼや畑が広がっているというわけです。

 この人家と松の木の並木の間に道が延びているはずですが、これが「不動道」であるに違いない。

 P23の下の写真は、「本牧の並木道」を写した写真ですが、おそらく根岸村の生活道路であった「不動道」の海側は、このようなものであったと思われます。松の木が海岸に沿って延々と伸び、その狭い砂浜の向こうに波が打ち寄せる浜辺があったのです。松の木の間からは根岸湾の広がりを見晴るかすことができ、その海の向こうにはうっすらと房総の山々が見えていたことでしょう。また当時においては、白帆を掲げたおびただしい数の漁船が浮かんでいたはずです。

 その海岸線は、大正12年(1923年・関東大震災があった年)以後急速に埋め立てられていき、現在のような姿になりました。

 先ほどのマップによれば、この「不動道」の沿道には、「志敬学舎」や「旗塚」がありました。「志敬学舎」というのは、明治6年(1873年)に大聖院内に設立された最初の小学校で根岸小学校の前身。「旗塚」というのは、沖合の漁船に合図の旗を掲げた所だという。途中、「六地蔵の坂」というのがあり、この坂は台地上への畑道で、相沢・地蔵坂を経て関内に直通し、農家が日本で初めて栽培されたといわれる西洋野菜を売りに行った道だとのこと。

 「白滝不動」についても説明があり、「元禄の頃より庶民に信仰された不動尊で、崖より湧き水が流れ落ちる景勝地」とありました。

 このマップを製作したのは、横浜市立根岸中学校の昭和62年度卒業生。彼らは祖父たちから「昔の根岸のようす」について話を聞き、卒業記念事業としてこの「根岸マップ」を製作しました。

 このマップには、次のような文章も掲載されていました。

 「昔の人は、北側の海触崖と南東の遠浅な海に挟まれた平坦地を『根岸』と名付け、生活の場としてきました。その後、埋め立てが進むにつれ、海岸線は沖へ沖へと前進しました。現在、『根岸』という名称は、地域の一部、社寺・小中学校・駅名に残るのみとなり、町も大きく変わってきました。」

 今から140年ほど前のベアトの写真を見るとき、そのあまりもの変貌ぶりに唖然とします。

 この「根岸マップ」の右手には、根岸湾漁業協同組合が設けた「根岸湾埋め立て記念碑」がありますが、これによると根岸の人々が、横浜市の施行する根岸湾百十万坪の埋立に同意したのは昭和34年(1959年)の1月25日。この同意に至るまでには、根岸の人々と横浜市、両者の間で困難を極める交渉が繰り広げられました。その交渉は2年有余におよんだという。その後、埋め立て地は臨海工業地帯となっていきますが、根岸の人々は先祖が長い間生活の糧としてきた豊かな漁場を失うことになったのです。


 続く


○参考文献
・『F.ベアト幕末日本写真集』(横浜開港資料館)
・『新版 写真で見る幕末・明治』小沢健志編著(世界文化社)
・『幕末明治 横浜写真館物語』斎藤多喜夫(吉川弘文館)


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