鮎川俊介の「幕末・明治の日本を歩く」

渡辺崋山や中江兆民を中心に、幕末・明治の日本を旅行記や古写真、研究書などをもとにして歩き、その取材旅行の報告を行います。

2008年 夏の北海道西海岸・取材旅行 「小樽 その3」

2008-09-06 06:26:09 | Weblog
 旧金子(元三郎)商店の前に立ったのは7:52。住所は小樽市堺町1-22。妙見川を堺橋で渡って、堺町本通りに入ったところの左側。この堺町本通りの界隈は、昔の建物が残り、昔の風情が感じられるところ。少し想像をめぐらしただけで、兆民がやってきた時の町並みのようすを再現することができます。これには感激しました。

 旧金子商店は、木骨石造り2階建ての赤瓦屋根。石壁は耐火のためのもの。おそらくほかの木骨石造りの建物と同じように、小樽軟石を使用しているものと思われる。赤瓦は、断定は出来ませんが、おそらく「北前船」によって越前(福井県)から運ばれてきたものではないか。すなわち「越前瓦」です。

 耐火建築であるこの商家が建てられたのは明治20年(1887年)。中江兆民が足を踏み入れたところで、国内において残っている建物としては、これが数少ないうちの一つではないだろうか。しかもこの建物は、兆民が主筆として迎えられた小樽最初の日刊新聞『北門新報』が、印刷・発刊された「記念すべき場所」なのです。

 店先には、旅人が座れるベンチがあり、また小さな花が咲くミニ花壇があります。通りに面して、小奇麗な空間になっているのが嬉しい。

 小樽の市内見学は、「もうこれを見れば十分!」という気持ちになったほどでした。

 この旧金子商店の店先のベンチに座って、コンビニで買ったおにぎり(朝食)を頬張り、妻に携帯で連絡をとりました(「金子商店の前にいるよ!」)。

 中江兆民が、函館の港を日本郵船会社の「遠江丸」で出航し、小樽港に到着したのは明治24年(1891年)の7月27日の早朝5時。上陸した兆民は、函館の「キト旅店」の小樽支店である「キト旅店」(「キト旅人宿」)に入ります。この小樽の「キト旅店」については、ネットで「『キト旅館』と中江兆民」という記事が出てくるので、これをもとにまとめてみます。

 この記事によると、「キト旅館」が開業したのは明治15年(1882年)。明治13年(1880年)秋には、手宮~札幌間に鉄道が開通。明治15年(1882年)には鉄道は幌内にまで延長され、「小樽は本州からの移民や大量の物流の中継地」となりました。この年に、函館の谷太郎吉が、将来の小樽の発展を予想して、函館「キト旅館」の小樽支店を開業したのです。

 政治家・財界人・文人など多数の人々がこの「キト旅館」に宿泊していますが、中江兆民もその多数の中の1人。兆民は明治24年(1891年)の7月27日より8月2日まで6日間を、この「キト旅館」に滞在しました。

 この「キト旅館」のあった場所は、色内大通りの小樽郵便局から中央通との間、現在「ジェルム・中央通」というマンションが建っているところであるという。

 「キト旅館」の外観も、この記事の中にそれを写した貴重な写真が掲載されていて、そのようすがよくわかります。建物は1階部分が和風で2階部分が洋風。屋根は寄せ棟で瓦葺き。2階の洋風部分は、上下上げ下ろし式の四角いガラス窓が並び、その窓にはカーテンが掛かっています。解説記事によると、1階の左には「キト回漕店」の看板が掛かり、玄関入口には船の出入日時が書き出され、玄関土間には柳行李(こうり)や荷物と旅人らしい姿が見える。1階の左半分が「キト回漕店」の玄関であるのに対して、右半分は「キト旅人宿」の玄関。そ玄関口には、半纏(はんてん)姿の店員がおり、そしてまた人力車が停めてあって人力車の車引きが立っています。「キト回漕店」の左手の路地には赤ん坊を背負った娘など数人の子どもたちがいて、また壁際には大八車が停めてあります。

 耐火建築で、おそらく壁は白色。寄せ棟の屋根はもしかしたら金子商店と同様、赤瓦であったかも知れない。そう考えると、そうとうにハイカラな旅館であったと思われます。

 このハイカラな建築は、おそらく函館に由来するものであったでしょう。

 函館の古い住宅には、「函館式和洋折衷住宅群」というのがありましたが、その中で、B型と分類されるもの、すなわち、1階が四方とも和風で2階が洋風、という和洋折衷型のタイプに、この「キト旅館」も属すると思われます。

 こ「キト旅館」小樽支店の本店は、函館の「キト旅館」でしたが、おそらくこの函館本店も、1階和風2階洋風の「和洋折衷 B型」であったのではないでしょうか。

 ともかく、明治24年(1891年)の7月27日早朝5時、小樽港の波止場に艀(はしけ)で上陸した兆民は、おそらくそこから、函館の「キト旅館」(函館本店)が手配した「送状」にしたがって「宿引」の指図のまま波止場から人力車に乗り、倉庫の並び立つ海岸や和・洋のおびただしい数の船が碇泊する港を見ながら、途中で通りを曲がって、この「キト旅店」(小樽支店)の玄関口に到着。ここで人力車を降り、半纏姿の店員に迎えられて2階の客室に上がったことでしょう。窓辺に寄ってカーテンを開き、上下式のガラス窓を上げれば、下に見える通りを行き交う大八車や人力車、また働く人々や旅人たち。もしかしたら赤ん坊を背負って小さな子どもたちと遊んでいる土地の娘の姿も見られたかも知れない。

 客室で一服し、朝食を摂った兆民は、それから玄関を出て堺町本通りの金子商店に向かいました。妙見川に架かる堺橋を渡って、通り左手の角から2軒目が、目指す金子商店でした。見上げる2階建ての商店は石造り(実は木骨石張り壁)で、茶褐色のがっしりした建物でした。2階の左右の窓は、石壁に開けられた漆喰塗の白い開き窓。新築されてからまだそんなに経っていないような、まるで倉庫のように見える耐火建築でした。ここが、『北門新報』が発行されている建物であったのです。玄関口から、「粗服兵児帯(へこおび)」姿のまま中に入った兆民は、「金子元三郎君はおられるか」と、呼ばわったことでしょう。


 続く


○参考文献
・『中江兆民全集⑬』「東京より北海道に至るの記」(岩波書店)
・『中江兆民評伝』松永昌三(岩波書店)
・『中江兆民』飛鳥井雅道(吉川弘文館)
 ネット
・「小樽の歴史」
・「『キト旅館』と中江兆民」


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