鮎川俊介の「幕末・明治の日本を歩く」

渡辺崋山や中江兆民を中心に、幕末・明治の日本を旅行記や古写真、研究書などをもとにして歩き、その取材旅行の報告を行います。

太宰治の『津軽』と、「津軽四浦」  その12

2015-12-05 05:41:28 | Weblog

 鰺ヶ沢駅で汽車を下りた太宰は、「コモヒ」のある鰺ヶ沢の通りを、町の外れまで歩いてみましたが、鰺ヶ沢の町は「おそろしくひよろ長い町」でした。

 「海岸に沿うた一本街で、どこ迄行つても、同じやうな家並が何の変化もなく、だらだらと続いてゐ」ました。

 町の外れまで歩いて引き返して、太宰が思ったことは、「町の中心といふものが無い」「扇のかなめがこはれて、ばらばらに、ほどけてゐる感じ」であるということでした。

 しかし、太宰は、かつての鰺ヶ沢が「西廻り航路」の有数の港として、「隆々たる勢力」を有していた町であったことはしっかり認識していました。

 鰺ヶ沢駅から、海岸に沿ったひょろ長い港町を町の外れまで歩き、そして同じ道を引き返した太宰は、再び鰺ヶ沢駅から五能線に乗って、 その日の午後2時に五所川原駅へと帰り着きました。

 五所川原については、太宰は「序編」で触れています。

 「岩木川に沿うて五所川原といふ町がある。この地方の産物の集散地で人口も一万以上あるやうだ。青森、弘前の両市を除いて、人口一万以上の町は、この辺には他に無い。善く言へば、活気のある町であり、悪く言へば、さわがしい町である。農村の匂ひは無く、都会特有の、あの孤独の戦慄がこれくらゐの小さい町にも既に幽かに忍びいつてゐる模様である。」

 この五所川原市内には、日清戦争後の明治29年(1896年)に竣工した「布嘉御殿」、つまり青森県長者番付第1位の佐々木嘉太郎の大邸宅がありました。

 高さ13mの赤い煉瓦塀で囲まれていた、まるで城塞のような大邸宅は、五所川原の本町にありました。

 約1万2千㎡の敷地に、建坪約900坪の入母屋造り土蔵構えの総2階建て。

 総工費は当時のお金で38万円。

 和洋折衷の大邸宅で、当時における個人住宅としては、東北一の規模であったという。

 この「布嘉御殿」は、昭和19年(1944年)11月29日の午前零時30分に発生した「五所川原大火」によって、無惨にも焼け落ちてしまうことになりますが、太宰が『津軽』の旅で五所川原を訪れた時(昭和19年5月)には、まだその威容を本町に見せていたはずですが、なぜか太宰はその「布嘉御殿」には、何も触れていません。

 スケール的には「布嘉御殿」には劣るけれども、金木の実家である津島家も、「布嘉御殿」と同じ弘前の大工の棟梁堀江佐吉が設計・施工した建物であり、同じような雰囲気を漂わせるハイカラな豪邸でした(現在の「斜陽館」)。

 太宰は、「七つか、八つの頃」、夜、五所川原の賑やかな通りを歩いていて深いドブに落ちた記憶を思い出しています。

 「衆人環視の中で裸にされた」のですが、その場所が「ちやうど古着屋のまへ」でした。

 裸にされた太宰は、「その店の古着を早速着せられ」ましたが、その古着は「女の子の浴衣」で、帯は「緑色の兵児帯」でした。

 「ひどく恥ずかし」い思いをした、その賑やかな通りにある「古着屋」の前というのは、もしかしたら「又古」(またふる)という屋号の「布嘉御殿」の前ではなかったか。

 また太宰は、「中畑さん」(中畑慶吉)に「これから、ハイカラ町(ちょう)へ行きたいと思つてるんだけど。」と話していますが、この「ハイカラ町」とは、和洋折衷の大邸宅「布嘉御殿」があったあたりのことではないか。

 いずれにしろ、五所川原の町は、太宰にとって「幼年時代の思ひ出がたくさんある」ところでしたが、「布嘉御殿」や、佐々木嘉太郎について、なぜか太宰は全く言及していません。

 

                                       続く

 ※掲載写真は、本町一丁目の鰺ヶ沢奉行所跡(現在は鰺ヶ沢保育所)

 

〇参考文献

・『津軽』太宰治(JTBパブリッシング)

・『津軽・斜陽の家』鎌田慧(祥伝社)



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