鮎川俊介の「幕末・明治の日本を歩く」

渡辺崋山や中江兆民を中心に、幕末・明治の日本を旅行記や古写真、研究書などをもとにして歩き、その取材旅行の報告を行います。

2011.冬の取材旅行 「富津市 浄信寺の忠魂碑」 その3

2012-01-23 05:12:11 | Weblog
 その「保科正景の墓」の案内板には、次のようなことが記されていました。

 保科正景は、元和2年(1616年)に生まれ、2代藩主として飯野藩初期の基礎を固め、藩政にも大きな治績をあげた。貞享3年(1686年)に3代正賢(まさかた)に家督を譲り、元禄13年(1700年)に85歳で没し、浄信寺に葬られた。歴代藩主のお墓の中で、富津市にあるのはこの正景の墓だけ。

 江戸時代の青木村は、初期を除いて幕末まで一貫して飯野藩領であった。飯野藩の陣屋は、飯野陣屋と摂津国豊島郡浜村(大阪府豊中市浜町)の浜村陣屋の2つがあり、2代正景の時代の所領は合計2万石ほどであったという。

 その保科正景のお墓は、石柵に囲まれており、背後には畑が広がっていました。

 お寺の背後をぐるっと歩いてみると、背後(北側)や西側は畑が広がっていて、お寺のところに木々が密集しています。農村の畑の中にあるお寺という印象を受けましたが、正面へ回ると、その参道の先(南側)や東側に集落があり、このあたりは漁業ではなく農業中心の生活が代々営まれてきたように見受けられました。

 参道を通って境内へと戻る時に、一台の車が傍らを通過し、境内にその車が停まり年輩のご夫婦が下りてきました。年末のお墓参りであるようです。

 しばらく境内で休んだ後、お墓参りを済ませたらしいその年輩のご夫婦に声を掛けました。

 「このお寺は由緒のあるお寺のようですね」

 「ええ、そうですよ」

 と答えたご主人が、

 「どちらから見えたんですか」

 とたずねたので、

 「神奈川県の厚木の方から」

 と答えると、

 「私たちは神奈川の磯子の方から墓参りに来ました」

 とのこと。

 「すると、お生まれはこちらなんですね」

 「ええ、アクアラインを使って時々墓参りに来ています」

 「こちらのお寺の忠魂碑は、尾崎行雄が揮毫したものなんですね」

 「ええ、尾崎行雄の碑文がある忠魂碑です」

 「ほかのものには案内板があるのに、あれには何の説明もないから、もったいないですね」

 そのご主人は大正生まれだとのこと。ということは80半ば過ぎであり、奥様も80前後ということになる。

 「この墓地には、戦没兵士のお墓が多いような気がするんですが…」

 と言うと、

 「そうですか」

 と答えたご主人は、ちょうど傍らにあったお墓を指して、

 「これは私のおじさんのお墓です」

 と言いました。

 それは私が先に見たお墓の一つで、「海軍少尉SY之墓」とありました。

 陸軍関係の戦没兵士のお墓が圧倒的に多い中で、「海軍」であって「少尉」というのは珍しいものだったのです。

 昭和19年(1944年)11月25日に31歳で亡くなっており、未亡人となった奥さまは昭和42年(1967年)に46歳で亡くなっています。その二人の間に生まれた長男は、平成9年(1997年)に52歳で亡くなっています。

 SYさんが亡くなった時、未亡人となった奥さまは身ごもっていたということになる。

 墓参りに来たそのご主人は、そのおじさんのことをよく知っているとのことでした。

 「亡くなった息子は優秀な人で、東大法学部を出た人です」

 とも語ってくれました。

 私が、

 「このあたりの若い人たちは佐倉連隊に入ったんですね」

 と話を向けると、ご主人は、

 「そうです」

 と即答しました。

 その「海軍少尉SY之墓」の左側面を見ると、そこにはその妻の戒名と没年月日および俗名が刻まれており、左端には「昭和廿一年八月 建立者SS」と妻の名前が刻まれていました。

 つまり、妻が建立した夫のお墓は、その妻自身の墓にもなったということであり、夫のお墓の側面に妻の戒名や没年、俗名が刻まれているというのは、私にとっては珍しいものに思え、また感慨深いものがありました。

 磯子からの年輩のご夫婦は、やってきた親類知人と合流するようであり、まもなく挨拶をして別れました。

 「海軍少尉SY之墓」には真新しい仏花が供えてあり、線香の煙がくすぶっていましたから、これは先ほどのご夫婦が供えたものと思われました。

 それから、ふたたび忠魂碑の前に立ってそれを見上げた後、停めてあった車に乗って、浄信寺を出発しました。


 続く(次回が最終回)



○参考文献
・『渡辺崋山集 第1巻』(日本図書センター)


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