鮎川俊介の「幕末・明治の日本を歩く」

渡辺崋山や中江兆民を中心に、幕末・明治の日本を旅行記や古写真、研究書などをもとにして歩き、その取材旅行の報告を行います。

2011.冬の取材旅行 「富津市 浄信寺の忠魂碑」 その2

2012-01-22 06:52:37 | Weblog
 門柱の間の参道を通って境内に入ると、まず目についたのは参道右手の「万霊供養塔」でした。「有縁無縁の墓石」を集めて、その中央上部に阿弥陀如来像を安置したもの。墓域の形態変化に伴って、古い墓石を「万霊供養塔」にしたもので、中央上部の阿弥陀如来像は、当山中興の信誉上人が、元禄7年(1694年)に念仏講中のために建立したという由緒あるものだという。

 石仏が集積されて小高い丘のようになっており、その頂上部にたしかに阿弥陀如来像(石仏)が安置されています。

 本堂の前、両側に大きな石灯籠があって、その右側の石灯籠のそばに「富津市指定文化財(建築物) 浄信寺石灯籠 二基」と記された、やや錆びついた案内板が立っていました。

 それによると、この二基の石灯籠は、飯野藩二代藩主であった保科正景(1616~1700)が、自ら再建した浄信寺へ元禄9年(1696年)に寄進したもの。高さは2m90cm、竿は高さ83cm。その竿部に刻名があり、向かって右側の石灯籠には、保科家の定紋(並び九曜)、浄信寺の定紋(九曜)、「元禄九丙子年九月日」「奉寄進石燈篭二基」「施主保科弾正正景敬白 行年八十一歳 上総国周集郡青木村福聚院浄信寺」などといった文字が刻まれているという。

 保科正景がその晩年に寄進したものであり、この「浄信寺」がある村の名前は「青木村」であったことがわかります。

 忠魂碑は、本堂前を右手に入ったところの正面に、墓地を背景にしてそびえるように立っていました。

 その上部に「忠魂碑」と刻まれ、その下に碑文が刻まれています。かなり大きな忠魂碑です。

 越川芳麿さんは、その新聞記事で、「碑は仙台石で、高さ十五尺ばかり」と記しています。とすると、この忠魂碑の高さは4.5mほどになる。

 尾崎行雄の筆跡をそのまま刻んだ碑文は、以下の通り。

 「人殺志 強奪などの 罪悪も 國乃ためには 聖業とな留

 幾千歳 此迷信を 守り来し 人の群れをば 国民という

 迷信をすてざる限り 人類は 跡を絶つべき 機運となりぬ」

 その碑の裏面にも、尾崎行雄の文章が、横書きで碑面いっぱいに刻まれていました。その文章は以下の通り。

 「戦争は大仕掛の強盗や人殺しである。個人又は少数者が之を行う時はだれでも罪悪であることを知つているが、藩主又は国家が之を行う時わ称讃すべき功業と心得、戦死者をば忠臣義士と称讃し、之を神に祭る事さへある。

 こんな前後矛盾の事が全世界古来の思想と習慣であった。

 然るに文化漸く進んで殺人強奪わ個人が行つても国家が行つても均しく罪悪であることを語り平和主義が漸く旺盛に赴き我が国の如きわ敗戦の結果軍備を全廃するに至つた。

 今後益々この思想と感情を養成して世界人類の幸福増進に努力せんがため、茲に旧思想下の霊魂を弔い、併せて新思想の涵養に資す  
                            おザキゆキオ 」

 この碑が建立されたのは「昭和廿五年八月」であること、「青木區民」が建立したものであり、その発起人が「鹿島市郎」以下であって、当時の区長が「鹿島庄蔵」、刻んだのは「青堀町」の「大野留吉」であり、「左官」が「秋本喜知」であったことなども、裏面の文字からわかりました。

 青木村の忠魂碑建立発起人たちが、どういう故あってか、その忠魂碑の碑文(揮毫)を尾崎行雄に依頼し、それに応えた尾崎行雄が、表面と裏面の碑文を寄せ、その内容を青木村の区長はじめ発起人たちはよしとして、昭和25年(1950年)の8月にここに建立されたものであることがわかります。

 そして、越川芳麿さんの新聞記事によると、その翌年の昭和26年(1951年)の5月20日に尾崎行雄が「青堀町」に招かれて、尾崎行雄自身がこの忠魂碑の前に立ってこの碑を眺め、そして町民を前に講演を行った、ということになります。

 前に記したように、「青堀の忠魂碑」という新聞記事の見出しを見た時、「尾崎行雄」と「忠魂碑」というのはミスマッチのように私には思えたのですが、この碑文(表裏)の内容を知った時、これは晩年の尾崎行雄の、後世の人々に対して魂魄を込めて訴えた「遺言」ではないかと思われてきました。

 尾崎行雄が亡くなったのは、それから3年後の昭和29年(1954年)10月6日のこと(95歳)でした。

 その忠魂碑を見てから、墓域のお墓を見て回りました。

 やはり、戦没兵士のお墓があちこちにありました。

 「陸軍歩兵軍曹」「陸軍歩兵曹長」「「陸軍歩兵大尉」「海軍少尉」「陸軍技術兵長」「陸軍曹長」「「陸軍軍曹」「陸軍伍長」「陸軍兵長」「海軍軍属」「陸軍技術兵長」といった肩書であり、戦死した場所は、中国であったり、満州であったり、ビルマであったり、サイパン島、レイテ島、硫黄島などであったりします。

 「陸軍看護婦」として広東に派遣され、昭和16年9月8日に21歳で、陸軍病院において「戦病死」した女性のお墓もありました。

 ここでも圧倒的に多いのは、「陸軍」関係の戦没兵士の墓でした。

 ほかに、墓域の中には、「海苔場殉職者之碑」や、「富津市指定史跡」の「保科正景の墓」がありました。

 「海苔場殉職者之碑」がここにあるということは、おそらく檀家の中に「海苔場」で働いていた人がいるということであり、檀家には漁業従事者がいたということでしょう。

 「保科正景」というのは、先ほどの石燈籠を寄進した人物であり、飯野藩二代藩主であった人。

 その案内板も立っていました。


 続く


○参考文献
・『渡辺崋山集 第1巻』(日本図書センター)
・『房総の山河 一茶漂泊』井上修之介(崙書房)
・「青堀の忠魂碑」越川芳麿(『東日本新聞』5月25日号の1984年6月15日再掲載記事のコピー)


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7 コメント

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忠魂碑 (マツジュン)
2016-08-05 13:37:21
初めまして、青木村の忠魂碑の事を現在95歳の父から聞き、このブログを見つけました。その時、父はこんなエピソードを話してくれました。戦地にいき幸いにも生きて帰ってきた父、それが理由ではないようですが、皆、村の長老ばかりの設立メンバーの中に一人若くして選ばれたそうです。そのわけとは、長老達との意見の食い違いでした。戦没者の氏名それぞれに亡くなった当時の位を記したい長老側に対し、父は個人で設立するなら問題ないが、この場合の碑物は氏名のみにするべきと主張し、元々飯野村出の父は、尚の事、一時、村八分扱いだったと当時をふり帰っていました。がしかし,尾崎行雄先生が、父の意見に賛同したことにより、長老が父に詫びに訪れ、設立メンバーに是非入ってくれとお願いされたそうです。その後、忠魂碑は現在も、高く、大きく、立派にたっております。この忠魂碑に興味を頂けた越川様にも、ちょっと話したくコメントさせて頂きました。

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マツジュンさまへ (鮎川俊介)
2016-08-10 09:23:34
コメントありがとうございます。ご返事遅れて申し訳けありません。忠魂碑の戦没者名の記載にまつわるお父上からお聞きしたというお話し、大変興味深く読ませて頂きました。青木村が忠魂碑の碑文を尾崎行雄に依頼したということも驚きであったし、尾崎行雄が忠魂碑の碑文を記しているということも私にとっては意外な感がしたのですが、実際に忠魂碑を見て、碑文の内容を知ることにより、あの碑文が、戦前・戦中・戦後を生きた尾崎行雄の、後世の人々に対する遺言とでも言うべきものであることを知りました。お父上がなぜ戦没兵士の位を記すことに反対したのか、村の長老たちがなぜ位を記そうとしたのか、それぞれの立場がわかるような気がしますが、戦地から生き延びて帰国されたお父上には、戦地で亡くなった人々にはそれぞれに位階ではあらわされない尊い人生があったこと、それぞれが尊い「個人」であったこと、そしてまた尊い人生の可能性があった人たちであったとの強い思いがあったのではないでしょうか。尾崎行雄がお父上の意見に賛同されたこと、また村の長老たちも詫びを入れに訪れ、現在も異例とも言える忠魂碑が立派に残っていることについて、大変感銘深く思いました。  鮎川俊介、
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忠魂碑 (マツジュン)
2016-08-10 13:40:32
初めに、お名前を越川様と間違えて記して失礼いたしました。
恥ずかしながら、尾崎行雄という人物もこの事をきっかけに知り、また戦前戦中の話を父から聞き、あらためて父の生きてきた時代は壮絶な時代だったと思いました。ここ数年、父の生きてきた時代に興味がわき、帰郷の際は昔の話にも耳を傾けるようなり、興味深い話も多々出て来て、もう少し早く聞き出したかったと思う次第です。
確かにあの忠魂碑の事もまだ謎があり興味深いですね。これからも大事に見守っていきたいと思います。いろんな意味でありがとうございました。

 
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マツジュンさまへ (鮎川俊介)
2016-08-11 07:39:19
尾崎行雄は相模国津久井県又野村に生まれたことから、津久井には「尾崎行雄を全国に発信する会」というのがあり、私はその会に関係していた方から銚子の越川さんを紹介されました。越川さんの父親は越川芳麿(よしまろ)さんといって、尾崎行雄と親しく、尾崎行雄が銚子に保養にやって来た時のために別荘を建てたほどでした(現在も残っています)。私はその越川芳麿さんの奥様から新聞(『東日本深部』)のコピーを頂き、浄信寺の忠魂碑のことを知りました。それが5年近く前のことです。95歳になられるお父上が、どこの戦場におられ、どのような戦地の状況を体験され、どのように生き延びて帰国されたのか、そのあたりのことをぜひ詳しく知りたいと思いました。  鮎川俊介
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マツジュンさまへ (鮎川俊介)
2016-08-11 07:58:26
『東日本深部』となっていますが、変換ミスで、正しくは『東日本新聞』です。越川芳麿さんはその新聞の記者として、尾崎行雄に同行し、前年夏に完成したばかりの忠魂碑を目にしています。私が芳麿さんの奥様から頂いた新聞のコピーは、その『東日本新聞』の1951年(昭和26年)5月25日号であり、その見出しは「青堀の忠魂碑」とあって、「こシカワよシマロ」と記者名が入っています。尾崎行雄が亡くなったのは、忠魂碑を訪ねてから3年余のちの1954年(昭和29年)の10月6日のことでした。
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鮎川様へ (まつじゅん)
2016-08-18 21:45:09
 父から、又新たな話を聞く事ができました。話しているうち記憶も徐々によみがえってくるようです。
忠魂碑の疑問点。父の戦中の足取りなど,改めて今ここにある自分たちの命が生かされている事を感じた次第です。私は忠魂碑の碑文をなぜ尾崎行雄が手がける事になったのか疑問でしたが、父がそれを解く、ある切り取った著者名 府馬清の文献を手渡されました。。鮎川さんもご存知でしょうか?。それによると当時地元の町議をしていた森田勘助と人がいて彼は三人の息子を太平洋戦争で失い、遺族会のリーダーをしていて、忠魂碑を建てようと考えていたところ、たまたま塚田金次郎という人が北海道で一旗あげて青木に来ていたそうです。ちなみに金次郎さんの息子さんは私も面識が有った事をこの事で知りましたが、数年前に亡くなったのことです。この塚田が森田に、碑文の書き手として、いい人を紹介するという形で、塚田が尾崎行雄に一切を頼んだという事らしいです。また、この碑が建てられ除幕式も寸前に迫ったある日の事、この碑にクレームをつけたものがありました。飯野に住んでいた、四天王延孝という戦時中、陸軍中将だった人である。『こんな碑を建てるとはけしからん。打ち砕いてしまえ!』四天王はいきまいたが、そのころは、もと陸軍中将といっても、全く力を失っていて、地元の人たちに、『まあ、まあ』となだめられて、結局、つつがなく除幕式もすんだということです。またこれはあくまで父の推測ですが、お金の事が父の知る限り一度も話に出なかったそうで、おそらくこの塚田という人が建立費用を出したのではないかと、いっています。忠魂碑には賛助員という名目で塚田金次郎と刻まれていました。父の事はまた後日に書きたいと思います。
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まつじゅん様へ (鮎川俊介)
2016-08-19 05:32:36
 府馬清という方の文献は目を通していませんが、忠魂碑建立の経緯がよくわかりました。三人の息子さんを太平洋戦争で失い、当時遺族会のリーダーをしていた森田勘助という人が忠魂碑を建てようとしていたところ、北海道で一旗上げてたまたま青木に来ていた塚田金次郎という人が、碑文の書き手として「いい人を紹介する」といって尾崎行雄を紹介し、塚田が尾崎に一切をまかせたということ。またこの碑文を見た飯野の元陸軍中将がクレームをつけ、「こんな碑を建てるのはけしからん、打ち砕いてしまえ」といきまいたこと。このようなクレームがつくことはある程度予想されたことであったでしょうが、その忠魂碑がそのまま除幕式を迎えたことに、戦後まもなくの当時の村人の心情を推し量ることができます。元陸軍中将にとっては、若いうちに築かれた自分のアイデンティティや信念が根底からくつがえされる思いであったのでしょう。しかし森田勘助ら大多数の遺族や村人にとっては、「理屈」ではなく、自らの「体験」や「経験」に基づく感情から、この尾崎が書いた碑文の内容はごく素直に受け止められるものであったのです。尾崎の知り合いであって、北海道で一旗上げて、忠魂碑の建立費用のかなりを供出したと思われる「塚田金次郎」という人は、どういう人であったのか、俄然興味を持ちました。浄信寺の忠魂碑にまつわる貴重なお話しを聞かせて頂き、感謝いたします。    鮎川俊介
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