鮎川俊介の「幕末・明治の日本を歩く」

渡辺崋山や中江兆民を中心に、幕末・明治の日本を旅行記や古写真、研究書などをもとにして歩き、その取材旅行の報告を行います。

2012.3月取材旅行 「宮原~上尾~桶川~鴻巣」 その2

2012-03-20 09:50:39 | Weblog
 石段は30ほどありました。下からまっすぐに石段は上へと延び、その頂上には「磐長姫命」と刻まれた石碑と、「淺間神社」と刻まれた石碑が置かれていました。前者の石碑の礎石には○内に「三」という文字が刻まれ、後者の石碑の「淺」の字の上には富士山を現すマークが刻まれています。

  ○内に「三」という文字から考えると、これは「丸三講」という富士講の一派が築き上げた富士塚であるのかも知れない。

 「淺間神社」の石碑の上半分は三角形であり、コニーデ型の富士山の姿を思わせます。

 頂きからは、北の方に「埼玉県魚市場第2冷蔵庫」と記された白亜の巨大倉庫(冷蔵庫)が見えました。

 石段を下りて周囲を巡ってみると、樹木がなければ全体的にきれいな三角形をした築山であることがわかります。

 その富士塚の前(南側)は、広い駐車場になっており、看板には「水産物市場第9駐車場」とありました。

 この「第9駐車場」と「魚市場第2冷蔵庫」との間に、この富士塚はあることになります。

 ここから先ほど歩いた道を戻り、中山道に出たところで右折(8:57)。

 10分ほど歩くと右手に「南方(みなかた)神社」というのがありました。境内の古い手水鉢には「武州足立郡吉野原村」「文政十三寅年」という銘文があり、このあたりはかつて「武州足立郡吉野原村」であり、この手水鉢が「文政十三年」(1830年)に寄進されたものであることがわかります。この「南方神社」は、この吉野原村の鎮守であったことも、その由緒が記された案内板からわかりました。

 その北側の住宅街に入ってから、出会った人に「浅間様」の場所を尋ねると、「もう少し東に行ったところに公園があるけれども、その一角に小さな浅間様があるよ。でも見るほどのものではないけどね」とのこと。

 教えられた通りに少し歩いていくと、「つゝじヶ丘公園」という広い公園があり、その奥のゲートボール場にはお年寄りの人たちが集まって、ゲートボールを楽しみ始めています。

 その右手に朱塗りの小ぶりな鳥居のある樹木の繁りがあり、よく見るとそれは三角形の築山であり、斜面には石碑がいくつか並んでいます。

 近寄ってみると、それらの石碑には、「鈴原神社」、「小室淺間宮」、「小御岳」、「食行霊神」、「阿夫利祠」、「御座石」などといった文字が刻まれています。これはどう見てもやはり「富士塚」です。「食行霊神」の「食行」とは「食行身禄」のことでしょう。

 登山道は、先の富士塚のように直線の石段ではなく、富士山の登山道になぞらえています。

 頂きには「淺間大神」と刻まれた石碑が置かれていました。

 その周囲を歩いてから、公園を出たのが9:20。

 中山道に出る手前にあった「宮原図書館」にちょっと立ち寄って休憩してから、中山道へと右折。

 「しらかば通り「に出たところで左折し、JR高崎線の踏切(第一川越街道踏切)を渡って、次の「浅間様」を探しました。

 「庚申公園」の「庚申塔」(木造瓦屋根のお堂の中にある)などを見てから、三つ目の「浅間様」の前に至ったのが9:53。

 その直線の石段の登り口右手には、「富士登嶽記念碑」と刻まれた大きな石碑が立っていました。ここもやはり鬱蒼と樹木が繁っています。頂きには「富士仙元宮」や「尊大権現」という字が刻まれた石造物がありました。真新しい御幣が巻かれているために「尊大権現」と部分的にしか見えませんが、これはおそらく「石尊大権現」であり、「富士詣で」(富士講)と「大山詣で」(大山講)に関係するものと思われる。

 「富士仙元宮」の比較的新しい石碑の奥に、かなり古い同じく「富士仙元宮」と刻まれた石造物があり、この富士塚がかなり古いものであることがわかります。

 その左隣には稲荷神社もありました。

 三つ目の富士塚を見た後に、道を戻り、角に宮原図書館のある宮原コミュニティセンターを見て、「つつじが丘公園(西)」交差点を左折(10:08)。

 中山道を歩いて「上尾市」域に入ったのが10:10でした。


 続く


○参考文献
・『江戸近郊道しるべ』村尾嘉陵(東洋文庫/平凡社)


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