ペリー艦隊(四隻)が、相州浦賀港の沖合にその姿を現わしたのは、嘉永六年(1853年)六月三日のこと。その月の二十日付けで、幕府は、土佐藩に万次郎召し出しの通達を出します。
この万次郎召し出しに動いたのは、伊豆韮山代官の江川太郎左衛門(英龍・1801~855)。彼の門人である大槻磐渓(1801~1878・大槻玄沢の子)は、すでに万次郎を高く評価していました。
八月一日、万次郎は高知城下を早駕籠で出立。
八月三十日に、江戸鍛冶橋(かじばし)の土佐藩上屋敷に到着。万次郎は、藩邸内に居住することになります。藩邸における警護はきわめて厳重で、許可を得た幕府の高官でなければ面会することは出来ませんでした。
万次郎と面会したのは、老中首座阿部正弘(1819~1857)、林大学頭(1800~1859)、勘定奉行川路聖謨(としあきら)、勘定吟味役(伊豆韮山代官)江川太郎左衛門、海防参与水戸中納言(徳川斉昭〔なりあき〕・1800~1860)ら錚錚たる人物でした。
特に徳川斉昭は、江戸上屋敷の後楽園内の琴画亭に万次郎を呼び出し、家来の藤田東湖(1806~1855)らとともに八十近くもの質問を浴びせます。
大船建造・軍艦の艦載砲・医術・大統領の選ばれ方・大統領の住居・大統領の引退後の生活・航海術・軍事・外交・キリスト教のことなど、質問は多岐にわたりました。万次郎は、世界地図を開いて、アメリカや世界のことについて説明します。
万次郎は、老中阿部正弘に面会した際に、
「アメリカの国の者に対する応対や通弁など、どのように込み入ったことであっても対応することが出来ます」
と述べています。大した自信です。帰国以来、日本語の読み書きを必死になって習得したに違いありません。
万次郎は、川路の質問に対して、アメリカについて次のように答えています。
・アメリカ国は、十三州が「共和」して次第に大きくなり現在は三十四州になった。
・国主はなく、大統領(「フラジデン」)が国中の人民による入札(いれふだ)によって 選ばれ、在職四年で交代する(人物がよく、また戦争など大事なことがあった場合は、 八年になることも)。
・大統領の都府はワシントン。
・アメリカ国では、自他の差別がなく、人は一体と考えているから、たとえ国交を持って いない国の者に対しても、難儀なことがあれば手厚くあわれみをかけてくれる。
・アメリカ国が国交を求める目的の一つは、捕鯨船が遭難した際の、乗組員の救済と処遇 のことである。
・アメリカ国では、大統領をはじめ上下の隔てはなく、諸事、隔たりあることを嫌う。
・まず測量した上で、船を進めるのが異国において定まったやり方である。
・アメリカ国に滞在していた時は、英語を学んだので、アメリカの言語や文字は一通り知 っており、通弁をすることも出来る。
万次郎の知識や能力に着目した老中阿部正弘は、十一月五日、土佐藩留守居役を役宅に招き、万次郎を「御普請(ごぶしん)役格」「御切米二十俵二人扶持」で登用する旨の文書を渡します。
また同月二十二日には、万次郎は「御代官江川太郎左衛門手付(てづき)」を命ぜられます。
これにより「御家人」となった万次郎(異例の抜擢〔ばってき〕と言ってよいでしょう)は、鍛冶橋の土佐藩邸から本所(ほんじょ)南割下水の江川家江戸屋敷の長屋に移ることになります。
そこで、万次郎は書籍の翻訳に従事したり、伊豆の網代(あじろ)から召しだされた水夫たちに、西洋式の操帆術を教えたりしています。
江川は、幕府に対して、万次郎が長崎で没収された品々を返還するように願い出て、書籍類・小筒三挺・オクタンド(八分儀)などが返却されます。
その年の十二月、万次郎は江川に随従して、江川の代官所がある伊豆韮山に赴きます。
翌嘉永七年(1854年)の一月九日、韮山の江川や万次郎は、ペリー艦隊が再渡来したとの急報を下田から得ます。
十一日、江川と万次郎らの一行は、韮山を出立。十三日に江戸に入ります。
二十三日、老中阿部を訪問した江川は、外交交渉談判の際の通訳として万次郎を起用することを訴えましたが、徳川斉昭の反対により(相手に有利なように談判する懸念がある。またスパイ的行為に出るかもしれない、といった理由)実現しませんでした。
二月一日、江川は神奈川に出張しますが、これに万次郎も同行。
江川は翌朝すぐに江戸に戻りますが、万次郎は神奈川に居残ります。
万次郎は日米の外交交渉の表舞台には出ないものの、「衝立(ついたて)の陰にかくれて通訳をした」(グリフィス)との説もあり、翻訳などの仕事に従事していた可能性もあります。
この日米外交交渉に通詞(通訳)として活躍したのは、もと長崎通詞(大通詞)の森山栄之助(1820~1871)。
ポーハタン号を訪問した森山は、乗員に対して、
「プレブル号の艦長は今どうしているか。ラナルド・マクドナルドを知っているか」
と、おそらく英語で質問します。
「彼(森山)の英語は大変上手なので、他の通訳はいらないほどである」
との証言もあり、森山は英語をかなり話せるようになっています。
当時、英語を「大変上手」に話すことが出来た日本人は、万次郎とこの森山ぐらいだったでしょう。
三月三日、「日米和親条約(神奈川条約)」が締結され、この後あいついで他の国とも締結されます(「安政の五ヶ国条約」)。
その年十二月、過労のため江川は倒れ、翌年(安政二年〔1855年〕)一月十六日、ついに江戸の屋敷で病死します(55歳)。
同年十二月、江川太郎右衛門(英敏)のもとで、洋式船の建造に取り組んでいた万次郎は、幕府から『新アメリカ実践航海者』(ナサニエル・ボーディッチ)の翻訳を命ぜられています。
翌年六月、万次郎は本所より新築間もない芝新銭座の江川屋敷に転居します。
安政四年(1857年)四月、万次郎は幕府講武所に新設された軍艦教授所の教授(八名のうちの一人)を拝命しています。この時期、名村五八郎・尺(せき)振八(1839~1886)・西周助(1829~1897)・箕作麟(1846~1897)・榎本釜次郎(武揚〔たけあき〕・1836~1908)・大鳥圭介(1833~1911)・福地源一郎(1841~1906)らが、万次郎から英語を学んでいます。
その年、勘定奉行川路聖謨は、箱館で捕鯨事業を興そうとして、万次郎を派遣して、捕鯨の方法を伝授させることを決め、十月、箱館に向け江戸を出立します。箱館に着き、水夫たちに伝授しようとしますが、鯨を「恵比寿(えびす)さま」として崇(あが)める水夫たちと衝突。じきに江戸に戻ります。
翌安政五年(1858年)、万次郎は、再び捕鯨漁教授のため箱館に再出張。
彼は、洋式捕鯨事業の興隆が、大きな国益になると考えていたのです。
同年春、高知から細川潤次郎が、藩命で江戸に出てきます。細川は、海軍操練所において航海術を修めるとともに、藩主豊信(容堂)の命令で万次郎について英語を修学します。万次郎と細川との親密な交際はここから始まります。どれだけ親密であったかは、日記で伺えます。たとえば、以下の通り。
・1859.7.29 山田馬次郎、細川と同道して万次郎を訪問。
8. 2 細川、英学のため来訪。
8. 3 細川来訪。
8. 4 細川来訪。
8. 5 細川来訪。
8. 6 昼後より細川来訪。
8. 8 昼後より細川来訪。
8.15 細川、来訪。
8.17 細川来訪。
8.19 細川来訪。
8.20 細川、来訪。
8.21 細川、来訪。
8.24 細川、来訪。
9. 2 昼後より細川同道で土州上屋敷に行く。
9. 3 細川、土州上屋敷より来訪。
…
真夏の江戸で、ほとんど毎日のように会っていた万次郎と細川は、流れ出る汗を手拭いでふきふき、いったいどんなことを話し合っていたのでしょうか。興味をそそられます。
この年六月、万次郎は『亜美理加合衆国航海学書』を完成させ、また翌年九月に、日本最初の英会話書である『英米対話捷径(しょうけい)』を著すなど、著述にも励んでいます。
福地源一郎は、
「当時江戸に在りて英書を読むものは森山先生、英語を話すものは中濱翁の二人あるのみ」
と言っています。
この年十二月、アメリカのサンフランシスコに赴く蒸気軍艦(スクリュー型)「咸臨丸(かんりんまる)」に、教授方通弁主務として乗り込むことが正式に決定。
翌万延元年(1860年)の一月十三日に品川沖を出航。
勝麟太郎(海舟・1823~1899)が、「咸臨丸」の艦長でしたが、万次郎はその勝に対して、
「アメリカでも木の葉は青く、人間は足で歩きます。ただ、あの国では、高い身分、位についた者は、いよいよ賢く考え、振る舞いはいよいよ高尚(こうしょう)になります。日本とは天地の違いです」
と言ったといいます。万次郎がアメリカの社会をどう見ていたか、それが伺える面白いエピソードです。
一月十九日、咸臨丸は、碇泊している和船を縫って、荒天の中、浦賀を離れます。進路を東北にとり、太平洋を横断してアメリカのサンフランシスコを目指します。
航海中の咸臨丸の中で、どういうことがあったか。またサンフランシスコで万次郎はどう行動したか。
それについては、次回(来週の金曜日)にまとめます。
◇参考文献は前回に同じ。
この万次郎召し出しに動いたのは、伊豆韮山代官の江川太郎左衛門(英龍・1801~855)。彼の門人である大槻磐渓(1801~1878・大槻玄沢の子)は、すでに万次郎を高く評価していました。
八月一日、万次郎は高知城下を早駕籠で出立。
八月三十日に、江戸鍛冶橋(かじばし)の土佐藩上屋敷に到着。万次郎は、藩邸内に居住することになります。藩邸における警護はきわめて厳重で、許可を得た幕府の高官でなければ面会することは出来ませんでした。
万次郎と面会したのは、老中首座阿部正弘(1819~1857)、林大学頭(1800~1859)、勘定奉行川路聖謨(としあきら)、勘定吟味役(伊豆韮山代官)江川太郎左衛門、海防参与水戸中納言(徳川斉昭〔なりあき〕・1800~1860)ら錚錚たる人物でした。
特に徳川斉昭は、江戸上屋敷の後楽園内の琴画亭に万次郎を呼び出し、家来の藤田東湖(1806~1855)らとともに八十近くもの質問を浴びせます。
大船建造・軍艦の艦載砲・医術・大統領の選ばれ方・大統領の住居・大統領の引退後の生活・航海術・軍事・外交・キリスト教のことなど、質問は多岐にわたりました。万次郎は、世界地図を開いて、アメリカや世界のことについて説明します。
万次郎は、老中阿部正弘に面会した際に、
「アメリカの国の者に対する応対や通弁など、どのように込み入ったことであっても対応することが出来ます」
と述べています。大した自信です。帰国以来、日本語の読み書きを必死になって習得したに違いありません。
万次郎は、川路の質問に対して、アメリカについて次のように答えています。
・アメリカ国は、十三州が「共和」して次第に大きくなり現在は三十四州になった。
・国主はなく、大統領(「フラジデン」)が国中の人民による入札(いれふだ)によって 選ばれ、在職四年で交代する(人物がよく、また戦争など大事なことがあった場合は、 八年になることも)。
・大統領の都府はワシントン。
・アメリカ国では、自他の差別がなく、人は一体と考えているから、たとえ国交を持って いない国の者に対しても、難儀なことがあれば手厚くあわれみをかけてくれる。
・アメリカ国が国交を求める目的の一つは、捕鯨船が遭難した際の、乗組員の救済と処遇 のことである。
・アメリカ国では、大統領をはじめ上下の隔てはなく、諸事、隔たりあることを嫌う。
・まず測量した上で、船を進めるのが異国において定まったやり方である。
・アメリカ国に滞在していた時は、英語を学んだので、アメリカの言語や文字は一通り知 っており、通弁をすることも出来る。
万次郎の知識や能力に着目した老中阿部正弘は、十一月五日、土佐藩留守居役を役宅に招き、万次郎を「御普請(ごぶしん)役格」「御切米二十俵二人扶持」で登用する旨の文書を渡します。
また同月二十二日には、万次郎は「御代官江川太郎左衛門手付(てづき)」を命ぜられます。
これにより「御家人」となった万次郎(異例の抜擢〔ばってき〕と言ってよいでしょう)は、鍛冶橋の土佐藩邸から本所(ほんじょ)南割下水の江川家江戸屋敷の長屋に移ることになります。
そこで、万次郎は書籍の翻訳に従事したり、伊豆の網代(あじろ)から召しだされた水夫たちに、西洋式の操帆術を教えたりしています。
江川は、幕府に対して、万次郎が長崎で没収された品々を返還するように願い出て、書籍類・小筒三挺・オクタンド(八分儀)などが返却されます。
その年の十二月、万次郎は江川に随従して、江川の代官所がある伊豆韮山に赴きます。
翌嘉永七年(1854年)の一月九日、韮山の江川や万次郎は、ペリー艦隊が再渡来したとの急報を下田から得ます。
十一日、江川と万次郎らの一行は、韮山を出立。十三日に江戸に入ります。
二十三日、老中阿部を訪問した江川は、外交交渉談判の際の通訳として万次郎を起用することを訴えましたが、徳川斉昭の反対により(相手に有利なように談判する懸念がある。またスパイ的行為に出るかもしれない、といった理由)実現しませんでした。
二月一日、江川は神奈川に出張しますが、これに万次郎も同行。
江川は翌朝すぐに江戸に戻りますが、万次郎は神奈川に居残ります。
万次郎は日米の外交交渉の表舞台には出ないものの、「衝立(ついたて)の陰にかくれて通訳をした」(グリフィス)との説もあり、翻訳などの仕事に従事していた可能性もあります。
この日米外交交渉に通詞(通訳)として活躍したのは、もと長崎通詞(大通詞)の森山栄之助(1820~1871)。
ポーハタン号を訪問した森山は、乗員に対して、
「プレブル号の艦長は今どうしているか。ラナルド・マクドナルドを知っているか」
と、おそらく英語で質問します。
「彼(森山)の英語は大変上手なので、他の通訳はいらないほどである」
との証言もあり、森山は英語をかなり話せるようになっています。
当時、英語を「大変上手」に話すことが出来た日本人は、万次郎とこの森山ぐらいだったでしょう。
三月三日、「日米和親条約(神奈川条約)」が締結され、この後あいついで他の国とも締結されます(「安政の五ヶ国条約」)。
その年十二月、過労のため江川は倒れ、翌年(安政二年〔1855年〕)一月十六日、ついに江戸の屋敷で病死します(55歳)。
同年十二月、江川太郎右衛門(英敏)のもとで、洋式船の建造に取り組んでいた万次郎は、幕府から『新アメリカ実践航海者』(ナサニエル・ボーディッチ)の翻訳を命ぜられています。
翌年六月、万次郎は本所より新築間もない芝新銭座の江川屋敷に転居します。
安政四年(1857年)四月、万次郎は幕府講武所に新設された軍艦教授所の教授(八名のうちの一人)を拝命しています。この時期、名村五八郎・尺(せき)振八(1839~1886)・西周助(1829~1897)・箕作麟(1846~1897)・榎本釜次郎(武揚〔たけあき〕・1836~1908)・大鳥圭介(1833~1911)・福地源一郎(1841~1906)らが、万次郎から英語を学んでいます。
その年、勘定奉行川路聖謨は、箱館で捕鯨事業を興そうとして、万次郎を派遣して、捕鯨の方法を伝授させることを決め、十月、箱館に向け江戸を出立します。箱館に着き、水夫たちに伝授しようとしますが、鯨を「恵比寿(えびす)さま」として崇(あが)める水夫たちと衝突。じきに江戸に戻ります。
翌安政五年(1858年)、万次郎は、再び捕鯨漁教授のため箱館に再出張。
彼は、洋式捕鯨事業の興隆が、大きな国益になると考えていたのです。
同年春、高知から細川潤次郎が、藩命で江戸に出てきます。細川は、海軍操練所において航海術を修めるとともに、藩主豊信(容堂)の命令で万次郎について英語を修学します。万次郎と細川との親密な交際はここから始まります。どれだけ親密であったかは、日記で伺えます。たとえば、以下の通り。
・1859.7.29 山田馬次郎、細川と同道して万次郎を訪問。
8. 2 細川、英学のため来訪。
8. 3 細川来訪。
8. 4 細川来訪。
8. 5 細川来訪。
8. 6 昼後より細川来訪。
8. 8 昼後より細川来訪。
8.15 細川、来訪。
8.17 細川来訪。
8.19 細川来訪。
8.20 細川、来訪。
8.21 細川、来訪。
8.24 細川、来訪。
9. 2 昼後より細川同道で土州上屋敷に行く。
9. 3 細川、土州上屋敷より来訪。
…
真夏の江戸で、ほとんど毎日のように会っていた万次郎と細川は、流れ出る汗を手拭いでふきふき、いったいどんなことを話し合っていたのでしょうか。興味をそそられます。
この年六月、万次郎は『亜美理加合衆国航海学書』を完成させ、また翌年九月に、日本最初の英会話書である『英米対話捷径(しょうけい)』を著すなど、著述にも励んでいます。
福地源一郎は、
「当時江戸に在りて英書を読むものは森山先生、英語を話すものは中濱翁の二人あるのみ」
と言っています。
この年十二月、アメリカのサンフランシスコに赴く蒸気軍艦(スクリュー型)「咸臨丸(かんりんまる)」に、教授方通弁主務として乗り込むことが正式に決定。
翌万延元年(1860年)の一月十三日に品川沖を出航。
勝麟太郎(海舟・1823~1899)が、「咸臨丸」の艦長でしたが、万次郎はその勝に対して、
「アメリカでも木の葉は青く、人間は足で歩きます。ただ、あの国では、高い身分、位についた者は、いよいよ賢く考え、振る舞いはいよいよ高尚(こうしょう)になります。日本とは天地の違いです」
と言ったといいます。万次郎がアメリカの社会をどう見ていたか、それが伺える面白いエピソードです。
一月十九日、咸臨丸は、碇泊している和船を縫って、荒天の中、浦賀を離れます。進路を東北にとり、太平洋を横断してアメリカのサンフランシスコを目指します。
航海中の咸臨丸の中で、どういうことがあったか。またサンフランシスコで万次郎はどう行動したか。
それについては、次回(来週の金曜日)にまとめます。
◇参考文献は前回に同じ。