鮎川俊介の「幕末・明治の日本を歩く」

渡辺崋山や中江兆民を中心に、幕末・明治の日本を旅行記や古写真、研究書などをもとにして歩き、その取材旅行の報告を行います。

幕末土佐の英学とジョン・万次郎-その1

2006-09-08 21:02:16 | Weblog
 万次郎・伝蔵・五右衛門の三人が乗る「サラ・ボイド号」が琉球本島沖に接近したのは、ホノルル出港後四十七日目、嘉永四年(1851年)1月2日(旧暦)のこと。

 午後四時頃、沖合い10キロほどで、三人は捕鯨用ボートである「アドベンチャー号」
(「冒険号」)に乗り組み、翌日、琉球本島の摩文仁間切(まぶにまぎり・現糸満市大渡)の浜辺に上陸。土地の者に役所(摩分仁間切番所)まで案内され、そこで事情聴取を受けた三人は、那覇(なは)の手前の豊見城間切に連れて行かれ、すぐにそこで駆けつけた琉球王国の役人から取り調べを受けます。

 彼ら三人は、つばの広いフェルト帽を被(かぶ)り(髪型は西洋風)、洋服(上着とズボン)を着て、西洋靴を履くという、まったく西洋風の姿をしていました。
 言葉はほとんど通じず、手真似で何とか事情を伝えます。

 しばらくして在琉球の薩摩藩の役人がやってきて、三人に対する取り調べが行われ、その内容は早船で次々と鹿児島に届けられました。

 「万次郎なる者は日本の文字は知らないようであるが、アメリカの文字を読み書きするのはもちろん、船を乗り回すのもたいそう上手く、すぐれた才能の持ち主であるようだ」

 という記録が残っていますから、他の二人とは違って万次郎は有能な男であるとして特別視されている様子が伺えます。

 万次郎らが三人が乗ってきた「アドベンチャー号」には、さまざまなものが積み込まれていました。「英学」に関心を絞れば、次のようになります。

・ナサニエル・ボーディッチの『航海術書』(1844版・アメリカの航海術の原典と言 われる)
・『初級英文法問答集』(1850年・ロンドン版)
・『ザ・ライフ・オブ・ジョージ・ワシントン』

 このうち、『初級英文法問答集』は、安政六年(1859年)に出版された『伊吉利文典』(手塚律蔵・西周助校閲)と文久二年(1862年)に出版(初版)された『英吉利文典』(開成所版・藍色の表紙で薄いところから「木の葉文典」と称され、英学を学ぶ者たちに愛用される・開成所〔後の大学南校、東京大学の前身〕だけでなく、諸藩の洋学校、たとえば中津藩邸に設けられた福沢諭吉の塾でも使用されている・土佐藩の細川潤次郎もこの文典で英語を学んでいるはず)の原本となります。

 これらの書物やさまざまな物品はすべて役人に没収されました。

 しばらくして三人は、那覇(なは)に連れて行かれ、薩摩藩の琉球在番奉行より取り調べを受けます。

 奉行は、万次郎から、アメリカの造船・地理・風俗・航海・鉱山・捕鯨などについて細かく事情聴取し、万次郎が航海測量に精通していることと併(あわ)せて、鹿児島に報告。時の薩摩藩主島津斉彬(なりあきら・1809~1858)は、その報告を読んで大いに喜んだと言います。

 三人は、その年の七月、那覇の埠頭から、薩摩藩の御用船に乗せられ(「アドベンチャー号」や書籍など没収されたさまざまな物品も積載される)鹿児島に向かいます。

 山川港を経て鹿児島の埠頭に到着したのは、七月三十日のこと。

 彼らは、鹿児島城下の西田町下会所(役所)の仮牢に入れられます。

 帰国していた斉彬は、家来を会所に派遣し、万次郎から、造船・航海・測量・捕鯨などの諸知識を学ばせるとともに、自ら万次郎を呼んで、酒肴(しゅこう)を供し、人払いをしてアメリカや海外の事情を尋ねたといいます。

 取り調べを終了した薩摩藩は長崎奉行にそのことを報告し、九月十八日、三人を長崎に向けて出立させました。

 十月一日に長崎に上陸した三人は、立山(たてやま)の奉行所近くの桜町の揚屋(あがりや)に収容されます。奉行所の役人たちに、人払いの上で細かく取り調べを受けます。取り調べの回数は十八回に及びます。

 その取り調べの内容に目を通した長崎奉行牧志摩守は、幕府に対して、

 「万次郎はすこぶる怜悧(れいり)にして国家の用となるべき者である」

 と報告しています。

 当時、長崎通詞〔つうじ・通訳〕(小通詞)であった森山栄之助は、奉行の依頼により、万次郎が持ち帰った十六冊の書名のリストを作りました。

 森山は、漂流民を装って蝦夷地に上陸して長崎に送られてきたアメリカ人ラナルド・マクドナルド(1824~1894・アメリカ先住民と白人の混血児)から、すでに英語を学んでいます。ラナルド・マクドナルドは長崎にやってきたプレブル号で、日本を離れます。

 十月十八日、お白洲に呼び出された三人は、奉行から口書(くちがき・調書)を読み聞かされ、踏絵の後、口書に爪印。長崎奉行所による取り調べはこれにて終了します。

 十一月十八日、吟味書が完成し、三人はまた爪印を押しています。
 
 この吟味書は江戸に送られ、老中首座阿部伊勢守(1819~1857)・牧野備前守・松平和泉守・松平伊賀守・久世(くぜ)大和守らの目の通すところとなります。

 翌嘉永五年(1852年)五月下旬、高知藩士徒士目付(かちめつけ)の堀部太四郎ら総勢十七名が、万次郎ら三人を引き取りに長崎に向かいます。

 三人は、長崎に到着した堀部らとともにお白洲に引き出され、そこで、持ち帰り品(英語の本も含まれる)すべての没収と、その代わりとしての金銭等の支給を告げられます。

 六月二十五日、三人は、外国で着用した衣類と笠を持ち、「御国風(ちょんまげ・和服)」で他の十七名とともに、長崎を出立します。

 土佐と伊予の国境を越え、土佐吾川(あがわ)郡用居口(もちいぐち)番所を通過した一行二十名は、七月十一日に高知城下に到着。

 「十一年ぶりにもんて(戻って)来た」万次郎ら三人を見るために、沿道人垣をなしたといいます。

 山田町の長屋に住んでいた篤助(兆民)が、数えで六歳の時のこと。

 拙書『波濤の果て 中江兆民の青春』では、篤助は、

「父親に肩車されて、本丁(ほんちょう)筋の人混みの頭越しに、行列の真ん中を歩く漂流民三人を見物」


 したということになっていますが、それはあくまでもフィクションです。
 しかし、六歳の篤助が、三人を見た可能性は十分にあるのではと私は思っています。
 すでに死んだと思われていた彼らの「十一年ぶりの」帰国は、高知城下を揺り動かすほどの大ニュースだったからです。

 三人は、高知城東堺町の旅宿松尾屋三作方に収容され、その後は、御船方(おふなかた)浦戸役所のお白洲で、徒士(かち)目付役吉田文治の取り調べを受けることになります。この時、中浦戸町に住んでいた絵師川田小龍が浦戸役所に出仕し、吉田を助けて三人の取り調べを行っています。

 川田小龍は、自分の家に万次郎を寄宿させ、万次郎には読み書きの「いろは」を教え、万次郎からは英語を学んでいたという。

 三人は、山内家一門の要望から、洋装にちょん髷姿で屋敷に招かれ、褒美(ほうび)として金一封を賜(たまわ)ったこともありました。

 やがて三人は村に帰ることを許可され、伝蔵・五右衛門と宇佐で別れた万次郎は、十月五日の午後、生まれ故郷の中ノ浜に到着。

 庄屋宅にまず入り、そこから母「志を」と兄時蔵を呼びます。

 母親が駆けつけると、万次郎は、

 「ただ今帰りました。おっかあには、ご機嫌にてめでたし」

 と言ったとのこと。

 母「志を」は、万次郎をそれを聞くと万次郎に飛びかかって抱きしめたといいます。

 このころ、川田小龍の手により、万次郎から聞いた海外情報をまとめた『漂巽紀畧(ひょうそんきりゃく)』四巻が出来上がり、藩主豊信(容堂・1827~1872)に献上されます。

 それは、豊信により諸大名の借覧するところになるとともに、写本が作られて世間に出回ることにもなりました。

 十二月四日、万次郎はこの日付けで「定小者(さだめこもの)」に召し抱えられ、刀を賜り、帯刀を許されます。つまり漁師の身分から武士(と言っても下っ端ですが)の身分になったのです。当時においては破格のことと言ってよいでしょう。

 武士になった万次郎は、藩校教授(こうじゅ)館で、下っ端の教官として、学生に英語や海外の情勢、天文や測量などを教えたといいます。

 この時期に、万次郎は、後藤象二郎(1838~1897)や岩崎弥太郎(1834~1885)、そして細川潤次郎らと知り合っています。後藤は、万次郎から世界地図を一枚譲り受けています。

 この万次郎を取り巻く状況が激しく変わる大事件が勃発します。

 嘉永六年(1853年)六月、アメリカ東インド艦隊司令長官ペリー率いる四隻の「黒船」の浦賀沖来航です。

 万次郎の波瀾万丈の人生は、このことによってどう変わっていくのか。

 それは、また続きで、まとめていきたいと思います。

 では、また。


◇参考文献
・『中浜万次郎集成』鶴見俊輔監修・中浜博史料監修・川澄哲夫(小学館・1990)
・『漂巽紀畧』川田維鶴撰(高知市民図書館・1986)
・『私のジョン万次郎』中浜博(小学館・1991)
・『ジョン万次郎のすべて』永国淳哉編(新人物往来社・1992)
・『ジョン・マンと呼ばれた男』宮永孝(集英社・1994)
・『ジョン万次郎とその時代』小沢一郎監修・川澄哲夫編著(廣済堂・2001)
・『英語襲来と日本人』斎藤兆史(講談社選書メチエ・2001)
・『英語と日本人』太田雄三(講談社学術文庫・1995)   
 


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