鮎川俊介の「幕末・明治の日本を歩く」

渡辺崋山や中江兆民を中心に、幕末・明治の日本を旅行記や古写真、研究書などをもとにして歩き、その取材旅行の報告を行います。

渡辺崋山『参海雑志』の旅-佐久島~藤川宿~吉田宿-その6

2015-06-09 05:15:14 | Weblog

  まもなく名鉄西尾線の踏切を越えました。

 踏切を越え6分ほど歩くと、「→アイバ不動 国宝 金蓮寺」と記された案内標示がありました。

 「アイバ不動」の「アイバ」とは、「饗庭塩」の「あいば」であり、このあたりの地名であるでしょう。

 「国宝 金蓮寺」に興味を惹かれましたが、今回は崋山が立ち寄った「華蔵寺」がまずメインであるので、そのまま直進。

 「萩原御用田」の信号を過ぎてしばらくして、「↑源徳寺2.5km 華蔵寺3.5km 黄金堤4.5km」と記された案内標示が現れました。

 現在は14:05であるから、あと1時間ほど歩けば華蔵寺に至ることになります。

 吉田橋あたりを通過したのが13:30頃であったから、吉田湊から華蔵寺までは歩いて1時間半ほどの距離であったことになります。

 その案内標示の地点から20分ちょっと歩くと、「←碧南 →蒲郡 幸田 ↑岡崎 西尾市街」を示す道路標示がありました。

 県道42号と県道41号が交わる交差点であり、その交差点の名前は「六石目」。

 横須賀小学校を右手に見てすぐに「横須賀小前」交差点があり、左折すれば西尾市街で、やや右方向へカーブする道(県道42号)を進めば岡崎方面。

 もちろん岡崎方面へと向かいます。

 そこから歩くこと10分ほどで、直進する道と右斜め方向に延びていく道との分岐点があり、道路標示によると、直進する道は華蔵寺に至り、右斜め方向に延びる道が県道42号であって、岡崎に至ることがわかります。

 そこで華蔵道へ至る直進道路へと入って行くと、まもなく左手に「赤馬の径(みち)」と記された案内板(案内マップ)が現れました。

 「現在地」は「木田」というところであるらしい。

 最寄りの駅は、やや南西方向へと戻ったところにある名鉄西尾線の「上横須賀駅」。

 東方向には「東条城跡(古城公園)」があります。

 「東条吉良氏」の「東条」とは、この「東条城」によるのでしょう。

 「現在地」からこの直進道路を進んでいけば、その突き当りに「華蔵寺(上野介の墓)」があります。

 その「華蔵寺」があるあたりの山は「岡山」であるらしいこともわかります。

 「華蔵寺」の右隣には「花岳寺」があり、「岡山」には「善光寺沢南古墳」や「吉良八幡山古墳」などの古墳があります。

 それぞれの史跡には説明がほどこしてあり、「華蔵寺」には次のように記されていました。

 「家吉良家菩提寺。吉良公の木像や吉良家墓所があり、訪れる人が絶えません。本堂裏手には見事な小堀遠州流の枯山水庭園があります。」

 「赤馬の径」については、「吉良さん赤馬の径」とあって、次のような解説がほどこされていました。

 「吉良上野介は領地に帰った際、農耕用の赤毛の馬にまたがって、領内を視察したと伝えられています。この伝説に因んで、吉良家ゆかりの史跡を『赤馬の径』で結び、道標、説明板などを整備しています。」

 案内マップの「……」が「赤馬の径」で、赤馬のマークが「吉良公ゆかりの史跡」。

 「東条城跡」は、中世に吉良荘を治めた東条吉良氏の居城であり、小高い丘を利用して築かれたもの。

 先ほど案内標示にあった「黄金堤」というのは、吉良上野介が領地を洪水から守るために一夜にして築いたと言われる堤防のこと。

 この「案内マップ」のあるところから直線道路の先を見ると、小高い山(これが「岡山」)があり、直線道路はその山のやや右側の麓へとぶつかっています。

 そのぶつかったあたりに華蔵寺はあるようです。

 この直線道路は「吉良道」(県道42号)から分岐する形でまっすぐに華蔵寺へと延びており、かつては「吉良道」の両側も、そしてまたこの直線道路の両側も見渡す限りの田んぼであったものと思われる。

 崋山は、「茶臼山、華蔵寺、横須賀畷(なわて)」を含めた風景画を描いていますが、この直線道路がその「横須賀畷」であるようです。

 「畷」とは、「田の中の細道。まっすぐな長い道」と辞書にはあり、「横須賀畷」は、「吉良道」から分岐して華蔵寺のある岡山へとまっすぐに延びる田んぼの中の一本道であったのです。

 「案内マップ」のそばには、さらに詳しい史跡紹介(写真入り)の案内板もあり、吉良町の人々の強い郷土愛をそれらからうかがうことができました。

 

 続く

 

〇参考文献

・『渡辺崋山集 第2巻』(日本図書センター)

・「近代デジタルライブラリー 参海雑志」



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