鮎川俊介の「幕末・明治の日本を歩く」

渡辺崋山や中江兆民を中心に、幕末・明治の日本を旅行記や古写真、研究書などをもとにして歩き、その取材旅行の報告を行います。

2013.1月取材旅行「馬頭広重美術館~足利・観音山~女浅間山・男浅間山」 その最終回

2013-03-23 05:35:13 | Weblog
私は以前このブログで、津波被災地に桜の木を植える取り組みおよび私の“夢想”を紹介したことがあります。津波が押し寄せた山の斜面の、その津波到達点に沿って桜を植えていく試みですが、それは大地震が発生した時、そこを目指して避難する(山の斜面を登る)ための目印であると同時に、津波で亡くなった人たち一人ひとりの慰霊のためのものでもあり、さらに毎年春に咲く満開の桜を観ることによって、2011.3.11の津波被災の記憶を風化させないためのものでした。しかし実際、広大な更地が広がる平野部の被災地を見た時、近くに走って逃げていくことのできる山がなく、そのような被災地においては私の“夢想”は実現できるものではないということを知りました。たとえば仙台市郊外の若林区荒浜がそうでした。もとはおそらく広大な水田地帯であり、それが仙台の発展とともに郊外の新興住宅街と化した地域です。私はまだ岩手県の三陸海岸の被災地を見てはいませんが、背後の山が近いところにおいては、津波発生後にそこへ避難することはそれほど難しいことではなく、山の斜面に桜樹が横一列に並んでいて、それを目印に上へと逃げていけば助かる可能性が高いものと思われます。問題は閖上(ゆりあげ)や荒浜、東松島などの海岸に面した広い平野部の場合。今のところ、私にはコンクリートの防潮堤ではなく、宮脇昭さんの提唱する、震災「瓦礫」を活かした「森の防波堤」を海岸部につくることの方が、百年単位、千年単位の長期的かつ生態系的な観点から考えた場合、もっとも経済的であり、子々孫々の「命を守る」ものであると考えています。その「森の防波堤」には、ところどころに一定の高さで桜樹が植えられ、春になるとそれぞれが爛漫と咲き誇るのがいい。 . . . 本文を読む