『ふるさと牛堀 人と水の歴史』によると、牛堀の集落には映画館もあったという。名前は「東栄倶楽部」。昭和5年(1930年)に開館して、昭和40年(1965年)頃に閉館したという。牛堀の水運は、昭和10年(1935年)の時点でも活発な動きがあって、「千歳屋」や「清水屋」といった宿は乗降客で賑わったという記述もあるから、「昭和5年」の「東栄倶楽部」開館の時には、まだ水運は活発であり、地元の人々はもちろん周辺各地からやってきた人々が、映画を楽しみ、それは映画が衰退期に入る昭和40年頃まで細々と続いたということでしょう。牛堀河岸には蒸気船の取扱所があり、蒸気船が寄港する「蒸気河岸」があったはずですが、ではその蒸気船はいつ頃から牛堀に寄港するようになったのだろう。山本鉱太郎さんの『新編 川蒸気通運丸物語』をひもといてみると、P14~15に「明治中期頃の通運丸航路図」というのがあって、東京蛎殻町を出た通運丸は、小名木川→新川→江戸川へと入って、江戸川を遡り、利根運河へと右折。利根運河を抜けて利根川に入って右折。佐原で横利根川へと入って、牛堀に寄港しています。牛堀からは潮来経由で鹿島などに向かい、あるいは霞ヶ浦の高浜や土浦、江戸崎などに向かっています。つまり通運丸で東京からやってきた場合、常陸利根川経由で北浦へ向かったり、あるいは霞ヶ浦方面へ向かう場合の分岐点が牛堀であったことになります。P47の「通運丸航路開設一覧」を見ると、深川扇橋~常州霞ヶ浦高浜河岸が開かれたのは、早くも明治10年(1877年)5月21日のこと。「1ヵ月6往復」とある。ということは、明治10年5月には、東京から蒸気船「通運丸」が横利根川経由でこの牛堀河岸に寄港し、常陸利根川を潮来や北浦方面(高浜)へと向かっていったことになります。高瀬船を見慣れてきた人々にとって、蒸気機関で定期運航する「通運丸」の出現は、いかに驚きであったことか。 . . . 本文を読む