鮎川俊介の「幕末・明治の日本を歩く」

渡辺崋山や中江兆民を中心に、幕末・明治の日本を旅行記や古写真、研究書などをもとにして歩き、その取材旅行の報告を行います。

2010.冬の取材旅行「銚子~牛堀~関宿・境」牛堀その1

2011-01-05 06:18:19 | Weblog
崋山は、銚子の手前、潮来に牛堀経由で立ち寄り、宿泊しています。文政八年(1825年)7月2日のことでした。崋山一行3名が宿泊した宿は「いずみや泉助」。『四州真景図』には「潮来泉やより望む」という図があり、崋山らが宿泊した宿の窓からは、「一面の蘆の原のあいだに遠く近く水路が光る水郷風景を眺望」することができました。いったん宿で休憩した後、崋山らは潮来の遊郭を訪ねています。それがわかるのが『四州真景図』のうち「潮来花柳」。潮来の遊郭を大門外から描くとともに、女郎屋六軒の名前と引手茶屋一軒の名前が別に記されています。六軒とは、松本屋・大和屋・蓬莱屋・河内屋・庫太屋・四目屋、一軒とは「なかやど」。崋山一行も、引手茶屋「なかやど」から、その六軒の一つに登楼したと思われる。「潮来花柳」の図によれば、遊郭には黒木の大門があってそれが遊郭への入口。その大門を入って通りの両側に引手茶屋や女郎屋が並んでいます。正面には、蘆の茂みの向こうに黒板塀を持つ2階建ての茶屋が描かれ、その2階の部屋ではすでに宴会が繰り広げられている。大門の手前右手で腰を曲げて薪割りなどをしている男がおり、大門を入った通りには赤い着物に黒い帯の女が、禿(かむろ)らしき女の子を伴い、もう一人の女と挨拶を交わしている。『潮来遊里史』(大久保錦一編著)によれば、潮来遊郭は貞享元年(1684年)に開業。女郎屋は8軒前後で推移したらしい。遊女数は100名前後、引手茶屋は40軒前後もあり、船頭たちや旅人、また周辺の農村の男たちを集めてたいそう賑わったらしい。遊女の出身地は下総と常陸といった近辺地域が圧倒的に多く、その遊女たちのお墓は、『遊里潮来』(塚本新一郎)によれば、潮来の長勝寺と浄国寺にあり、その77名の戒名が同書P72~77に掲載されています。 . . . 本文を読む