鮎川俊介の「幕末・明治の日本を歩く」

渡辺崋山や中江兆民を中心に、幕末・明治の日本を旅行記や古写真、研究書などをもとにして歩き、その取材旅行の報告を行います。

2010.冬の取材旅行「銚子~牛堀~関宿・境」関宿その1

2011-01-11 05:29:12 | Weblog
本行徳河岸から木下(きおろし)街道を進んだ崋山一行は、その日(文政8年[1825年]6月29日)は白井宿の旅籠屋「藤屋」に泊まり、翌日は浦部あたりから手賀沼に出て、船を雇い、手賀沼あたりの古跡を探索。夕暮れに木下河岸に到着してその問屋で夕食を摂り、ふたたび船に乗ってその日の深夜(夜10時頃)津ノ宮河岸に到着して、「佐原屋」という旅籠屋に宿泊しています。現在JR成田線に木下駅というのがあり、この近くの利根川の河岸(木下河岸)を崋山一行は利用しています。山本忠良さんの『利根川と木下河岸』によれば、銚子で「なま船」に載せられた鮮魚は、夕刻に銚子を出発し、翌未明に木下または布佐に到着。そこから馬の背に揺られて、木下の場合は本行徳へ、布佐の場合は松戸へと運ばれたという。その道筋をそれぞれ「行徳みち」、「松戸みち」と言いますが、行徳側からは「行徳みち」を「木下街道」と呼ぶ。この「行徳みち」は鮮魚輸送の本街道で、「松戸みち」はその脇街道のようなものでしたが、後には「松戸みち」が鮮魚輸送の面では逆転してしまったとのこと。木下河岸は米・材木・薪・炭(佐倉炭)・竹が積み込まれるところでもあり、また香取・鹿島・息栖(いきす)の三社詣に行く人々や銚子遊覧の旅人でも賑わったところ。崋山一行がこの木下街道(行徳みち)を歩いた時は、真夏であったから、馬の背による鮮魚輸送は活発ではなかったかも知れませんが、三社詣でなどの人々の往来で賑わっていたものと思われます。 . . . 本文を読む